「おもてなし」が、02年ワールドカップ(W杯)日韓大会を成功に導いた。FIFAが最も心配したのは、警備問題だった。アジアで開催される初のW杯で、しかも共催。韓国はテロ対策を強調するため、マラドーナを呼んだ国際親善試合で、スタジアムの上空に機関銃を装着したヘリを飛ばし、国際社会に安全警護をアピールした。

一方の日本。開幕1年前にFIFAの役人から、厳しい表情で「大会期間中に日本はどうやって世界中から集まる選手、関係者、ファンの身を守るのか? 安全の保証はできるのか? 守るのは、犬か、馬か、銃か、それとも戦車か?」と、矢継ぎ早に質問が飛んだ。日本組織委員会メンバーは間髪入れず「ハートです」と答えた。

海外からのお客さんをもてなす心。これこそが日本の最大のアピールだった。直前合宿地となった大分・中津江村(現日田市)では、地元住民がカメルーン代表を温かく受け入れ、世界的な話題となった。長野・松本市では合宿中のパラグアイ代表GKチラベルトが小児病棟を訪れて激励し、少年院で更生中の少年たちとPK合戦をするなど交流を深めた。数年後、日本協会には「当時の経験で自分は生まれ変わることができました」との手紙が届いた。松本市はその感謝から、今でも少年大会の「チラベルト杯」を実施している。

英語が不自由だった人々も、身ぶり手ぶりで海外からの客を迎え入れた。スタジアムではもちろん、町中でも率先してごみ拾いをするボランティア団体が現れた。道端にゴミを捨てる人も減った。その良き習慣は今も継承されており、海外で日本のイメージを聞くと「日本人は親切、道がきれい」との声が多い。

「おもてなし」だけでは防げないものもあった。最も警戒したのは北朝鮮の挑発。実際、日本組織委員会が結成された翌98年には弾道ミサイル「テポドン」が日本上空を通過した。日本は各会場の近くに自衛隊が駐留し、試合中に哨戒機を飛ばした。6月29日の決勝前日には第2延坪海戦(北朝鮮と韓国の艦艇による銃撃戦)が起きた。決勝の会場には各国首脳、皇室のほか韓国大統領の金大中もいた。当然警備は強化された。後になって偽情報と判明したが、決勝戦が始まった数分後には「北朝鮮がまたテポドンを撃ったようだ」との情報が入り、警備本部は非常態勢に入った。

大会そのものは大いに盛り上がった。大会前から徐々にムードが高まり、各国代表が日本の地に降り立つと、日本各地は歓迎ムード一色となった。日本代表の快進撃とともにヒートアップ。東京・渋谷のスクランブル交差点は人があふれた。大阪・道頓堀の戎橋ではダイブの行列ができた。全国各地で、日本代表の結果に一喜一憂し、サッカーファンでなくても老若男女が抱き合った。

FIFAから日本に配当されたチケットは、日本戦に限らずすぐに完売となった。入場券が足りず、日本はFIFAが売るはずのチケットの譲渡を要求した。チケットが売れ残った韓国側には「日本から見に行くので、余ったものはすべて日本が買う」とまで伝えた。日本代表は決勝トーナメントに進出し、さらに入場券入手が困難になったが、決勝トーナメント1回戦の日本-トルコ戦(宮城)は約5000の空席。FIFAの余った席の一部が日本に渡らず、売れ残るハプニングもあった。

初の共催で、日韓関係は急接近した。海底トンネルで光ファイバーが設置され、衛星を使わずに両国の試合がリアルタイムで届けられた。その光ファイバーは今も健在で、サッカー以外でも使用している。スタジアムの停電を防ぎ、世界各国に良質な映像を届けるため、1機数十億円の無停電電源装置を数機レンタルした。その機材は、20年東京オリンピック(五輪)でも持ち込まれる。

日本協会は当時の収益で、東京・文京区に11階建ての自社ビルを保有することになった。FIFAから日本招致委員会への配当金40億円は、47都道府県のサッカー普及や施設の建設資金になった。98年長野五輪と並びW杯招致の経験は、東京五輪招致にも生きた。日本で開催された平成最大のスポーツイベントの成功は、数々の成果を残し、令和にバトンを渡すことになった。(敬称略)【盧載鎭】