横浜F・マリノスが2日のリーグ第19節、アウェーの清水エスパルス戦(国立)に5-3で勝ち、鹿島アントラーズに続く2クラブ目のJ1通算500勝を記録した。

クラブ創設30周年の節目で、93年のJリーグ開幕戦で記念すべき1勝目を挙げたときと同じ、国立での達成だった。

Jリーグ開幕時に横浜や日本代表で活躍し「ミスターマリノス」と呼ばれたレジェンド、木村和司氏(63)が現役時代の思い、クラブの未来へ向けた思いなどを語った。

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500勝達成から、さかのぼること1万640日前の1993年(平5)5月15日。埋め尽くされた国立のスタンドの光景は、今も木村氏の記憶に刻まれている。試合の前から、満員になるとは聞いていたが、それでも感動した。

「うれしかったね」

Jリーグ開幕戦のピッチに立った木村氏にとって、それは特別な景色だった。

日本リーグの日産時代は、サッカー人気が伸び悩んだ。そんな日陰ともいえる時代も経験した。国立では、日本代表として韓国戦で決めた直接FKが、今も伝説として語り継がれている。ただ、日本リーグでは空席が目立つ試合も少なくなかった。

ある国立での試合中、観戦に来た娘たちが、がらがらのスタンドを走り回る様子が、ピッチから見えたことも。そんな記憶が鮮明に残っている。「試合に集中していなかったということ」と冗談っぽく笑ったが、1人の選手として悔しさがあった。

だからこそ「プロは楽しませてなんぼ」の思いで走り続けてきた。「ワシは、いつも、お客さんを喜ばすためにやっていた」。3点取られれば、4点取る。そんなサッカーを追求した。「1-0でも勝つのはうれしかった。ただ、あまりおもしろくはなかったね」。プロの役目は勝つこと、そして競技の人気を高めること。そう心に刻んでいた。

現役時代のチームメートだったMF水沼貴史の長男宏太が、500勝目の節目で選手としてプレーした。かつて空席も目立った国立に、2日は5万6131人が入り、記念の500勝を飾った。「お父ちゃんをよく知っているし、赤ちゃんのころから(宏太を知っている)。(親子で)大したものだよね。また孫も横浜に入ったらおもしろいね」と、柔らかな笑みを浮かべた。

攻撃サッカーは今も横浜の代名詞。清水戦は2度追いつかれたが、5得点で勝った。「(スタジアムに)来てくれる人を喜ばせるサッカーを、ずっとやっていってほしい。そこを追求してほしい」。監督も務めたクラブで、このDNAが未来も受け継がれていくことを願った。

マリノスの名を冠して30周年。節目の年に挙げた500勝。「世界と比べると、まだまだ日本のリーグも年数はたっていない。これが続いて、スポーツ界を引っ張っていくような存在になってほしい」とエールを送った。

選手としても監督としても横浜の勝利を追い求めた歴史がある。現在も折を見てスタジアムに足を運び、チームの戦いぶりを見守っている。

「プロは人を呼んで、喜ばせてなんぼ。そこが続いてほしい」

苦しい時代も経験した1人として、そう繰り返した。スタンドでは赤、青、白の応援フラッグが揺れる。「好きだよ、トリコロールは」。レジェンドは短い言葉に、誇りと愛着を込めた。【岡崎悠利】

◆Jリーグ開幕戦 1993年(平5)5月15日、東京・国立競技場でV川崎(読売クラブ)と横浜M(日産)が、開会セレモニーに続いて対戦。チケットは抽選方式、NHKの視聴率は32.3%と国民的な関心事となった。試合は前半19分にFWマイヤーのゴールで川崎が先制したが、後半にMFエバートン、FWディアスのゴールで横浜Mが2-1と逆転勝ちした。26歳だった川崎のFWカズはフル出場。タレント軍団・川崎の加藤久、都並敏史の両DFや横浜の木村和司、水沼貴史というレジェンドMF、日本リーグ時代の不遇の時代を支えてきたベテランたちの中には、節目に涙で試合に臨む選手もいた。

◆木村和司(きむら・かずし)1958年(昭33)7月19日生まれ、広島県出身。広島工高-明大。81年に日本リーグの日産(現横浜)に入社。日本リーグでは184試合44得点。Jリーグ開幕戦でプレーするなどし、94年に引退。FKの名手としても知られ、85年10月26日のW杯メキシコ大会最終予選、ホーム国立での日韓戦で「伝説のFK」を決めている。日本代表では54試合26得点。引退後、解説者、指導者として活躍。古巣横浜でも監督を務め「ちゃぶる」の名言を残す。独特の語感が印象的な「ちゃぶる」とは「おちょくる」「ほんろうする」などの意味で多用され、選手を鼓舞。