東日本大震災を乗り越え、シニア2年目を迎えた11年、羽生結弦は強さを増した。前シーズンに跳べるようになった4回転トーループを、フリーだけでなく、ショートプログラム(SP)にも組み込んだ。夏に60公演ものショーで滑ったことで「体力は去年よりもある」と自信を持っていた。

 グランプリ(GP)シリーズ中国杯は4位、続くロシア杯でGP初優勝。初めてGPファイナルに駒を進めた。高橋大輔、パトリック・チャンら世界のトップ6人の戦いでフリーの自己ベストを更新し、4位と健闘。2週間後の全日本選手権で3位に入り、初の世界選手権切符を手にした。

 初の大舞台には被災地への思いを胸に秘めて臨んだ。大会前には500通のファンレターすべてに返事を書いた。「自分が出せるのは結果。被災地代表として日本が頑張っているとアピールをしたい」。結果を出さなければならない理由はもう1つ。長年パートナーを組んだ阿部奈々美コーチと臨む最後の試合だったから。14年ソチ五輪を見据え、翌シーズンから拠点を国外に移すと決めていた。

 3月、フランス・ニースでの本番。SP7位と出遅れて迎えたフリーで、羽生は途中のステップでつまずいた。直前に右足首を捻挫していた。それでも必死の形相で立ち上がった。あふれ出る感情を演技にぶつけた。後半の見せ場、コレオシークエンスの前には雄たけびをあげた。滑り終えると肩で息をしながら、右拳を振り上げた。目からは涙がこぼれた。フリー2位の合計3位。鬼気迫る演技で銅メダルを手にした。

 フランスから帰国すると、リンクの仲間や関係者に「行ってきます」と気丈に別れのあいさつを告げた。だが、いつもスケート靴を研いでもらっているリンクそばのスケートショップに行くと、泣き崩れた。「本当は行きたくないんだ…」。大好きな人や場所と離れても、前へ進まなくてはならない。後ろ髪を引かれながら、新天地のカナダ・トロントへと旅立った。【高場泉穂】