涙を流したあの日から、まもなく1年になる。

11月下旬、スーツ姿の新社会人は奈良にいた。本社のある東京から出張で出向き、翌日から佐賀、福岡、愛知、香川を立て続けに巡った。元フィギュアスケーターで23歳になった本田太一は、こう照れ笑いした。

「春は物思いにふける時間もありました。たまに演技をしている自分を映像で見ると『よく頑張っていたな』って思います。でも、それも『昔の自分だな』と感じるようになりました」

休日だった前日、関西にある実家へと立ち寄った。

★「限界かな」最後の全日本

つかの間の家族だんらんだった。明大2年になった真凜、女優と競技に取り組んできた青森山田高2年の望結、兄や姉が卒業した大阪・関大中で2年になった紗来。現役スケーターである3人の妹と、珍しく人生について語り合った。気づけば、3時間が過ぎていた。真凜は兄の姿を、少し誇らしい気持ちで見ていた。

「もともと周りの3歳上の方よりも『大人だな』とは感じていました。まだ社会人として半年しかたっていないけれど、ゆっくり話してみて、考えがしっかりしているなと思いました」

2020年12月、全日本選手権の会場は長野だった。太一にとって日本最高峰の大舞台は7度目。すでに、関大を卒業する翌春での現役引退を決めていた。

クリスマスに行われたショートプログラム(SP)の演技中には、思わずガッツポーズが出た。翌26日のフリーを終えると、次は目を真っ赤に腫らした。涙を流しながら言葉を紡いだ。

「演技をしながら『この空気を味わいたい』と思いました。最後まで気持ちは切らさなかったつもりですし、僕の今の限界かな」

最終順位は19位だった。

ジュニア時代は国際大会を転戦した。ジュニアグランプリ(GP)シリーズデビューとなった2012年は、第2戦米国大会で7位。のちに18年平昌オリンピック(五輪)代表となる4歳上の田中刑事が2位に入っていた。10位となった第4戦トルコ大会の優勝は、今も世界の第一線で活躍する米国のジェーソン・ブラウンだった。

5歳で始まったスケート人生の締めくくりは、あの当時、理想としていた形とはいえないかもしれない。

それでも、高校時代には決めていた。

★適正感じるも、あえて違う道へ

22歳で就職する-。

一家の長男であり、スケート界でも後輩に慕われる兄貴分だった。周囲にはコーチなど、引退後もスケートに携わる道を勧める声も多かった。自分も適していると思った。だからこそ、あえて違う考えに至った。

「妹たちのおかげで現役時代、ちやほやしてもらいました。その上で『180度違う世界に行こう』と思った。武器や知識もない。そんな世界で0からのスタートを切ると決めました」

新型コロナウイルスの感染拡大が続いていた2020年春、就職活動は本格化していた。面接はオンラインが大半だった。自宅の部屋で画面に向かい、前例のない就職活動を手探りで進めた。他業界を代表する大手企業からの内定も得た。

そうして選んだのが、今の仕事だった。

「難しい選択でした。でも大変なことはあるけれど、絶対に間違っていなかったと思えます。半年が経過して、少しずつ自信も持てるようになりました。多くの方にはなじみがなく『何の仕事なの?』と尋ねられる職種です。今回は『僕たちの仕事を少しでも知ってもらえたら』とも思って、お話しさせてもらいます」

現役時代と変わらない、優しい口調だった。(敬称略、つづく)【松本航】

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【「スケートよりやりがいある人生を」本田太一後編】はこちら>>

◆本田太一(ほんだ・たいち)1998年(平10)8月2日、京都府生まれ。5歳でスケートを始める。当初はアイスホッケーとフィギュアを両立。関大中-関大高-関大経済学部。大学時代は世界選手権3連覇中のネーサン・チェン(米国)を担当するラファエル・アルトゥニアン・コーチの指導を受けるため、妹の真凜と米国での生活も経験した。