2大会連続で主将を務めるフランカーのリーチ・マイケル(30=東芝)が独特の雰囲気に包まれた開幕戦で、チームを勝利に導いた。強烈なタックル、ボール争奪戦での落ち着いたプレーで8強入りを目指すチームをけん引した。来日して15年。「日本で育った」と語る大黒柱が、3度目のW杯で、桜のジャージーへの思いをプレーに込める。
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君が代を歌い終えたリーチは、静かに目を閉じた。超満員のスタジアム。キックオフを待つファンの鼓動が足もとから伝わった。迷いはない。取りこぼしの許されない初戦で、桜のジャージーの誇りをプレーに込めた。ボーナスポイントを含め、理想的な勝ち点5を獲得。「ファンの声援で勢いがつけられた」。試合後のピッチで真っ先にロシア選手と握手を交わすと、長かったこの4年間の記憶が頭をよぎった。
日本ラグビーを世界に認めさせた15年大会。だが、主役の座をつかんだ26歳の絶頂は長くは続かなかった。トップリーグ、スーパーラグビーと休む間もなく続く日程。「疲れ切った」。張り詰め続けた心と体は限界を超えていた。プレーは精彩を欠き、練習でもすぐに集中力が切れた。5歳で始め、自らの人生を切り開いてきたラグビーに、初めてやりがいを失った。
16年6月、W杯後最初のテストマッチを右手の骨折で辞退。「気持ちが前を向かない」状態の中、同年9月にジョセフ体制が発足。19年W杯へ向けた新生日本代表が動きだした。スーパーラグビーの強豪チーフスでレギュラーを張るリーチの合流を、新HCも当然のように求めた。2人だけの会談で代表入りの意思を問われた。返答次第で、その後の立場が危うくなる可能性は分かっていた。それでも、リーチが出した答えは「NO」だった。いったん席を外すと、戻った場所に、指揮官の姿はなかった。
「焼き肉と同じ。おいしいけど、腹いっぱいになったらそれ以上は食べられない」。だが、19年W杯、代表への思いが完全に消えることはなかった。「あのジャージーを着て中途半端なプレーはできない」。それも本音だった。日本代表。その存在がリーチの中で特別なものに変わったのは、16歳の時の苦い記憶だった。
15歳の来日から1年がたった05年6月。留学先の札幌山の手高の電話が鳴った。声の主は、遠く離れたニュージーランドにいる祖父だった。「火事で家が燃えた」。目の前が真っ暗になった。線路沿いに立つ平屋の一軒家。豊かな家ではなかった。ボロボロの靴を履き、いじめを受けたこともあった。だが、生まれてから15年間を過ごしたその空間には、いつも家族の愛があった。中学生のころ、ゴミ捨て場から拾ってきたガラス窓を父コリンさんと2人でカットし、部屋に取り付けた。壁に張った憧れの名選手ウォルター・リトル、ジョナ・ロムーのポスター。思い出の手紙や写真を入れるため、押し入れのカーペットを切り取ってつくった「秘密の穴」…。すべてがなくなった。
留学先の佐藤幹生監督からは「帰ってこい」と帰国をすすめられた。だが、家族全員の無事が確認できると、それで十分と首を振った。「もう戻る場所はなくなった。自分のものも全部消えた。残ったのは、今、日本にあるものだけ」。前を向こうとするリーチを支えたのは、現在も父のように慕う佐藤監督だった。リーチには内緒で、学校関係者、保護者らに募金を呼びかけ、わずか4日間で約70万円を集めた。その事実を、リーチは母から聞かされた。胸が熱くなった。
「日本に来てたった1年の自分に、なぜここまでしてくれるのか。自分にはラグビーでしか恩返しができない。日本と仲間のためだったら何でもやる」
進学した東海大2年時に初キャップを獲得。13年に日本国籍を取得すると、11、15年のW杯に出場した。「76キロの弱かった自分を強くしてくれたのが日本。僕は日本で育ったラグビー選手。だから、日本代表を強くして、恩返ししたい」。その信念が桜のジャージーを背負う原動力だった。
16年11月、代表を辞退したリーチは、所属する東芝の合宿地、鹿児島にあるスポーツバーにいた。テレビには欧州遠征でテストマッチを行う日本代表が映っていた。けが以外の理由で初めて代表の試合を外から見た。堀江、田中、立川ら、ともに戦い続けてきた仲間が体を張る姿に、心がざわついた。「戻りたい」。15年W杯から約1年。リーチ自身が待ち望んだ感覚だった。指揮官に頭を下げ、素直に思いを伝えた。17年6月、日本代表に復帰。15年W杯から止まっていた時計の針が、再び動き始めた。
勝負の2019年。W杯開幕を半年後に控えた3月に、ふともらした。ふれたのは、代表から外れていた立川、右足首の手術で戦線離脱していた堀江のことだった。「自分が代表を断った時、堀江さんとハル(立川)がジャパンを支えた。あの時無理をした影響が、今出ているのかもしれない。僕はセルフィッシュ(自己中心的)な選択をした。だから、どんなにきつくても、疲れたとは言わない」。3度目のW杯へ、それがリーチの覚悟だった。
大切にする言葉は「神に誓うな、己に誓え」。自分の心と向き合い続けた先に、自国開催のW杯の歴史的1勝が待っていた。4年前とチームが置かれた立場は違う。史上初の8強へ、歩みは止めない。試合後にはチームメートに「来週はこの緊張を抜いて、良い準備をしよう」と呼びかけた。次戦は世界ランキング1位のアイルランド。日本代表の中心には、今大会もリーチがいる。【奥山将志】
◆リーチ・マイケル 1988年10月7日、ニュージーランド・クライストチャーチ生まれ。札幌山の手高への留学で来日し、東海大を経て東芝。08年11月米国戦で日本代表デビューし、W杯は11年から3大会連続出場。13年に日本国籍を取得し、15年W杯は主将を務めた。家族は知美夫人(31)と長女アミリア真依ちゃん(5)。190センチ、110キロ。