ラグビーW杯フランス大会を1次リーグ2勝2敗で終え、日本代表選手は各所属で12月9日のリーグワン開幕に備えている。
ラグビー界最大の舞台を目指して、努力を重ねた日本代表選手の思いに迫る3回連載。第2回はSO松田力也(29=埼玉パナソニックワイルドナイツ)。
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激闘のアルゼンチン戦から3週間が経った。キック成功率95%。世界から注目を集めた松田は1次リーグ全4試合で背番号10を担い、20本中19本をゴールポストの間に通した。11月中旬に予定される埼玉の全体練習合流に向け、休養、個人トレーニング、メディア出演などをこなす日々。新たな1歩を踏み出している。
「勝てるところまできた。悔しさしかない。次の4年後へ、しっかりと良い準備をやり続けたいです」
涙を流した10月8日アルゼンチン戦。キックの陰に隠れがちだが、要所で体を張った。1点を追う後半5分、自陣22メートルライン付近での防御。自らへと走り込んできた相手の背後を通すパスを見るや、次のターゲットへ内側からタックルに入った。この時点で2人対3人の数的不利。外されれば失点危機となる場面で、足首をつかんで止めた。かねて「体を張っていたら仲間がついてきて、助けたりしてくれる。見えない信頼関係は、そういうところにある」と語る男の原点は、小学生のころにさかのぼる。
今から17年前の2006年1月7日、大阪・花園ラグビー場。全国高校大会の決勝は伏見工(京都)と桐蔭学園(神奈川)の顔合わせだった。伝統の赤のジャージーに身を包んだ伏見工は、何度も激しいタックルで相手の出足を止めた。当時小学5年生だった松田は、伏見工の応援席で声を張り上げ、優勝を見届けた。
「あの花園を見て『伏見で日本一になりたい』『高校日本代表になりたい』と、より強く思うようになりました」
そのわずか13日前、少年は大切な人を失っていた。
2005年12月25日。父の大輔さんがくも膜下出血で帰らぬ人となった。39歳の若さだった。
クリスマスだったその日、松田は地元京都でラグビースクールの試合に出場していた。不運なことに密集で肩を負傷。救急車で病院に運ばれ、大輔さんも付き添った。一緒に自宅に戻ると、父は夜からの飲食店での仕事に向けて仮眠をとった。
だが、起床時間が過ぎても、起きてこなかった。
救急車で病院に運ばれた父と病室で顔を合わせ、松田は「僕のせいで…」と泣きじゃくった。駆けつけた大輔さんの親友、木村與(あとう)さんからは「お前のせいじゃない」と声をかけられた。通夜、葬式の場で、木村さんは亡き友に「力也のラグビーは、心配いらん。周りが面倒見るからな」と語りかけた。そんな存在に松田は支えられた。
花園の決勝に誘ってくれたのも、木村さんだった。
「試合、見に行くか?」
「行きたい!」
父の親友は「家におっても悲しいと思って、ちょっとでも違う環境で過ごしてほしかった」と当時を思い返した。
大輔さんは京都・花園高時代、フランカーとして活躍していた。強い気持ちでで体を張り、仲間の信頼を集めた選手だった。社会人となってもユニチカでプレーし、松田は生前の父に「高校日本代表になったら、お前の勝ちでいいよ」と伝えられたことを忘れない。
父は京都府代表を経験し、自宅には「ALL KYOTO」と記されたカバンが置いてあった。大切な人に導かれるように伏見工へと進んだ松田は、高校日本代表に選出され「約束を果たせた」と感慨に浸った。
「そこから次の目標で日本代表を掲げて、今があります。父の言葉もジャパンを目指すきっかけになりました。父が今も生きていたら、僕がここにいないかもしれない。いないからこそ、頑張っているのは恩返しになる。その思いを背負っているのは、ありますね」
12月にはリーグワンが開幕し、日本代表も2024年にイングランド、ニュージーランドなど強豪とのテストマッチも予定されている。4年後のW杯オーストラリア大会は33歳で迎える。経験に基づく攻守のかじ取りはもちろん、パス、キック…そしてタックル。松田はどんな時も、大切なものを忘れない。【松本航】




