1969年(昭44)夏、2度目出場の仙台商が初の8強入りを果たした。9番遊撃手として甲子園2勝に貢献したのが現南三陸町長の佐藤仁氏(63)だ。のちにヤクルト入りした4番八重樫幸雄捕手らとともに、足を使った機動力野球で、宮城の伝統校に新しい1ページを記した。

 震災の年の秋。佐藤のもとに意外な訪問者があった。約40年前の甲子園1回戦で戦った御所工(奈良)の久保捕手だ。3点リードの9回表1死一、二塁。犠打で二塁走者の佐藤が快足を飛ばして一気にホームを狙うも久保にタッチアウトされた。間一髪のクロスプレーは、同年8月29日号の「アサヒグラフ」誌の表紙を飾った。

 佐藤 甲子園後は交流はなかったのですが、南三陸町長があの時のランナーだと知って、奈良から車を運転して見舞金を持って激励に来てくれた。甲子園の昔話などをしてね。ずいぶん勇気づけられました。

 69年夏、仙台商の9番ショートとして聖地の土を踏んだ。初戦の御所工に始まり、2回戦ではV候補の広陵(広島)を撃破。そして準々決勝で玉島商(岡山)に敗れるまで、当時の記憶は今も鮮明だ。

 佐藤 思い出すのはやはり広陵戦。相手エース佐伯(和司=のち広島)の球がめっぽう速くてね。野球をやって初めて、これは当たったら死んじゃうと本気で思った。それをうちの八重樫は普通に打っていた。プロに行く選手は違うんですね。私は3試合で8打数3安打。バッティングはあまり得意じゃなかったな。

 志津川町(現南三陸町)から甲子園を目指して仙台商に入学した。中学時代、本吉郡で100メートル1位になった足と守備には自信があった。だがすぐに伝統校の壁にぶちあたる。

 佐藤 家が印刷業をしていたから(商業高校に)というのもあるし、上に先輩もいた。何より仙台育英、東北を破って甲子園に行きたいという思いが強かった。でも入部するとまず中学時代のポジションを書くのですが、私は1番遊撃。ほかはほとんどエースで4番でした。それが40人いるんです。さらに5球ずつのフリー打撃では八重樫は全部ホームラン。いきなり目標がレギュラーから、3年間部活をやめずに頑張ろう、に変わりました(笑い)。

 ひたすら走りっぱなしの厳しい練習に、1カ月後には同級生は16~17人になったという。佐藤は「これでやめたら志津川に帰れない」の一心で耐え抜き、2年秋の新チームからレギュラーに。足の速さを見込まれ、監督からノーサインでのスチールを許された。その秋は東北大会決勝まで進み、太田幸司擁する三沢に0-4で敗れた。

 佐藤 実は(甲子園)準々決勝に勝てば、次の相手が三沢でした。みんな雪辱に燃えていて、目の前の玉島商を見ていなかったんですね。今思えば(敗戦は)そこに隙があったのかな。でも負けた夜は宿舎でみんなでマクラ投げ大会です。ああ、これで厳しい練習から解放されるってね。そしたら監督がふすまを開けて「そんなに負けたのがうれしいのか」と全員正座。いい思い出です。

 野球は肩を壊したこともあり高校とともに「卒業」。30代後半から政治の道へ進んだ。南三陸町長として遭遇した東日本大震災では、防災庁舎の屋上で津波に襲われながらも生還した。あれから4年、今も復興の道を歩む故郷で陣頭指揮を執り続ける。

 佐藤 高校野球の魅力は負けたら終わりというところ。だからみんな目の前の一戦に、歯を食いしばって頑張った練習のすべてをぶつけるんです。その最終目標として甲子園がある。あの場所で高校最後の試合ができた自分は幸せだったし、当時の経験は今も自分の中に生きています。どんな時だって、負けてたまるか、ですよ。(敬称略)【石井康夫】