プロ野球新記録の3018試合出場に到達した中日谷繁元信兼任監督(44)のルーツをたどった。自然に囲まれて育った幼少時代。家族の愛情を一身に受けて捕手谷繁の土台は作られた。

 故郷の広島県比婆郡東城町(現庄原市)は中国山地の真ん中に位置し、古くからの城下町として知られる。山と川に囲まれた実家から徒歩10分の距離に千手寺(せんじゅじ)はある。谷繁は里帰りすれば祖先が眠るこの寺に足を運び、手を合わせる。幼少期には毎日のように通った。

 山の上にある千手寺には急勾配の階段がある。50段、50段、50段で計150段を一気に駆け上がる。しかも腰には1・5キロの砂袋を巻いた。雪深い冬には竹を2本立てかけ、腕の力だけで登る。夏には近くの東城川でアユを捕った。

 父一夫さん(79)は谷繁のある言葉を今でも覚えている。「プロに入って何年かした頃に、あの子がこう言ったことがある。ドラフト1位でも都会の子は身体が弱いって。あの子の身体はこの自然があったから強くなったと思いますよ」。

 捕手との出会いは今から35年前のある試合だった。小学2年生で「東城ストロングボーイズ」に入団。主に投手だったが、1度だけ試合でマスクをかぶった。小学校4年生のとき、6年生捕手がケガをして当時の監督から命じられた。谷繁は「ホームのクロスプレーでブロックしてすごく褒められた記憶がある」。千手寺の石段で鍛えた足腰は同世代の誰よりも強かった。本格的に捕手を始めたのは島根・江の川(現石見智翠館)に入学してから。だが、この時の快感は体に染みついていた。

 一夫さんは「夜でも練習できるように」と、自宅の庭に300ワットの電球をつけ、練習を手助けした。中学生になると10キロ、30キロと数種類の手製バーベルをトレーニング用に与えた。希代のプロ野球選手の礎を築いたのは故郷の自然。そして父の情熱だった。【桝井聡】