俳優にとって出演した舞台、ドラマ、映画の「台本」は貴重な財産だろう。稽古中、撮影中にいつも傍らに置き、「戦友」のような存在でもある。故森光子さんは台本の隅々にきれいな字で書き込み、故大滝秀治さんは何十回も読み込んで、台本は膨らんでいた。
82歳の大ベテラン平幹二朗さんは、170本以上の舞台に出演しているが、手元にある台本は今年9月に出演する舞台と、来年春の舞台の2冊だけという。その理由を、新国立劇場の公演パンフレットに寄せたコラムで明かしている。
平さんは5月に亡くなった演出家蜷川幸雄さんとタッグを組んで、「近松心中物語」「ハムレット」「王女メディア」など11本の舞台に主演した。しかし、87年、平さんは肺がんを患い、蜷川さんとはボタンの掛け違いから疎遠となり、蜷川演出の舞台からしばらく遠ざかった。平さんが演じた役を、ほかの俳優が演じることが多くなった時、平さんは大きなはさみで山積した台本を切断し始めた。「鳴るはずのない蜷川作品のオファーの電話を、心のどこかで待っている自分が許せなかった」という。
演じた芝居への執着を断ち切り、新しい芝居作りの道を探そうと、はさみを動かし続けた。最後に切断したのは、清水邦夫作「タンゴ・冬の終わりに」。引退し、北陸にある実家の映画館に帰った演劇のスターだった男を主人公にした作品で、平さんはあるせりふに突き当たった。「ばか思い上がりもはなはだしい。あの芝居もあのセリフも僕だけのものじゃなかった」。清らかな心となり、「傷ついたりしたのはうぬぼれていたのだ」と述懐する。
以来、台本は千秋楽の夜に切断し、今、机の上にはこれから出演する2冊の台本があるだけという。台本はないが、出演した作品で、出版された戯曲は書架に並んでいる。「いつでも真っ白な気持ちで向き合うことができるように」と。生涯現役を公言する舞台人としての覚悟が、すがすがしく、格好いい。【林尚之】




