過激な言動で絶大な人気を集め、昭和と平成を代表する落語家で落語立川流家元の立川談志(たてかわ・だんし)さん(本名・松岡克由=まつおか・かつよし)が21日午後2時24分、喉頭がんのため都内の病院で亡くなった。75歳だった。23日、都内で近親者だけの密葬を行った。喪主は妻則子(のりこ)さんが務めた。晩年は食道がん、喉頭がん、糖尿病と闘った。今年3月から体調不良を理由に仕事をキャンセルしていた。戒名は談志さんが以前から決めていた「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」。後日お別れの会を開く。
談志さんは生涯落語家の道を選んだ。この日、会見した談志さんの事務所社長で長男の松岡慎太郎さん(45)によると、3年前に発症した喉頭がんが昨年11月に再発。「余命は2~3カ月」と宣告され、声帯全摘出の治療法を提示されたが、談志さんは「プライドが許さない」と拒否。がんの表面を取り除いただけで、高座を続けた。その後、がんの進行で呼吸困難症状となり、今年3月下旬に気管切開手術を受け、落語家の命である声を失った。
元タレントの長女松岡弓子さん(48)は「手術後、筆談で『声は出るのか』と聞かれ、答えることができなかった。筆談のメモがすごい量になった」と涙ぐんだ。手術後に決まっていた落語会をキャンセルし療養。自宅と病院を行き来しながら治療に専念した。週刊現代の連載「立川談志の時事放談」は続けたが、10月27日に容体が急変。一時心肺停止になり危篤状態となった。それから約3週間、1度も意識が戻ることなく、21日、則子夫人、慎太郎さん、弓子さん、孫にみとられ息を引き取った。
慎太郎さんは「3週間、強く生きてくれた。しゃべれないのがつらい状態だったでしょうが、1回もつらいとは言わなかった」、弓子さんも「(のどに開けた)穴の隙間から漏れた声で最後にしゃべったのは『私の名前は立川談志。どうしてこうなったの』。主治医には『しゃべりたい』と話したようで、つらかったと思います」。弟子たちの見舞いも「しゃべれない談志をさらしたくない」と断った。その死もすぐ弟子に知らせず、近親者で密葬を行い、ひつぎに愛用のバンダナ、かわいがっていたクマのぬいぐるみを入れた。密葬では大好きなジャズ「ザッツ・ア・プレンティ(これで満足です)」を流し、紋付きはかまに扇子を持たせて送り出した。
戒名は談志さんが以前から決めていた「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」。談志さんは「葬儀はしない。骨は海にまけ」と言っていたという。この日、都内で荼毘(だび)に付された後、死亡を公表した。後日、都内でお別れの会を行う予定。
晩年は病との闘いだった。97年に食道がん摘出手術を受け、98年と03年にも食道がん手術を受けた。08年に声がかすれる症状が出て、精密検査で喉頭がんと判明。放射線治療で克服した。09年2月に復帰したが、高座まで弟子に背負われるなど体力が低下。同年8月に糖尿病による体調不良で年末までの休養を発表し、翌10年1月14日から入院した。周囲も再起は無理と覚悟したが、談志さんは酒を断ち、睡眠薬もやめた。体調は回復、同年4月の落語会で8カ月ぶりに復帰し「首提灯」を演じた。出来に満足できず、会見で「もうダメだな」と引退をほのめかした。
その後の落語会で小話中心だったが、体調が好転した昨年12月に「芝浜」を演じファンを喜ばせた。今年3月6日の一門会で「蜘蛛駕籠(くもかご)」を演じたのが最後の高座。自身のホームページで談志さんは「少々お待ち下さい」とつづったが、待ちわびたファンの思いはかなわなかった。
◆立川談志(本名・松岡克由)1936年(昭11)1月2日、東京都文京区生まれ。52年、高校を中退し、16歳で5代目柳家小さんに入門、「小よし」と名付けられる。54年3月、二つ目に昇進「小ゑん」に改名。63年4月、立川談志を襲名し、真打ちに昇進した。日本テレビ系「笑点」を企画・立案、66年5月~69年11月まで初代司会者に。政界進出、引退後の83年、落語協会真打ち昇進試験制度運用を巡り落語協会会長で師匠の小さんと対立。83年落語協会を脱会し、落語立川流を創設。家元となる。




