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箱根の屈辱「ブレーキ」はなぜ起きたのか

 箱根駅伝は4区以外の9区間が20キロを超える。その過酷さゆえに、予想外のアクシデントも起きる。意識もうろうとなって歩きだす選手がいた。走り切れずにタスキが途絶えたこともあった。いわゆる「ブレーキ」は、なぜ起きたのか。当事者たちはその後、屈辱をどう乗り越えたのか。96年に4区で途中棄権した山梨学院大の中村祐二氏(40=現会社員)と、91年に2区で13人に抜かれた早大の櫛部静二氏(39=現城西大監督)に「当時」と「その後」を語ってもらった。

<96年山梨学院大4区:中村祐二>

 【94年(1年)3区、95年(2年)1区で連続区間賞を獲得し、山梨学院大の総合2連覇に貢献。95年はマラソンで世界選手権に出場するなど日本長距離界のトップ選手に成長。しかし、96年(3年)4区で右アキレスけん痛で途中棄権した。97年(4年)に2区区間賞を取り雪辱。現在は陸上を離れて静岡で就職。入社半年後の09年に会社更生法適用を申請し、総務課長として対処している】

 会社のことで周りには「大変だね」と哀れみの目で見られますが、箱根を経験したことで耐える精神力があるんだと思うんです。走ることは結果がすべて。自分の責任。今の会社での立場も同じです。辞めることは簡単ですが、逃げ出したくない。

 96年の箱根では2日前の調整で右足に痛みが走りました。かばわないと走れない状態。ただ深刻には受け止めませんでした。スタート直前も痛かったけど「走り始めたら何とか押し切れるかな」と。痛み止めも打ちました。でも、1キロも走ったらダメだったんです。

 ごぼう抜きされて歩きだし、止まる場面が多くなった。そこで初めて「タスキも渡せないかも」と思った。上田監督は自ら手を出そうとしないし、私も出してほしくなかった。でも12キロすぎに審判員の声が聞こえた。「これ以上ダメだ。監督が触らなくても棄権だ」と。そこでグシャッときました。頭は真っ白でした。

 レース後、同期の選手に「控えをなぜ信用しないんだ。チームはお前だけのものじゃない」と厳しく言われました。慰めの言葉より強く心に響いた。補欠だった選手が「なんで僕に任せてくれなかった」という雰囲気を出した時もあった。旅館ではひざまずいたまま、寝られませんでした。自分を正当化する理由も考えた。ずっと悔やみました。

 勘違いしていたんです。「自分がいないとチームが成り立たない」と。世界選手権も経験して、ほかの選手と意識が違うと思っていた。自分本位でチームに携わってきたことを、思い知らされました。走る気力がなくなり、過食して体重は54キロから63キロに増えた。走れない理由を、つくるためだったんでしょうね。

 5月上旬の関東インカレで1年生の頑張る姿に「自分は何をやっているんだ」と思えた。その変化に気付いた上田監督から「環境を変えよう」と言われて米ボルダーに行きました。景色を見ているうちに「ちょっと歩いてみよう」と思ってきた。そこからなんです。再スタートを切れたのは。

 最後の箱根もひざを痛めて、12月28日まで10日間走れなかった。監督には「今回は止まることはない。でもベストは出ない」と打ち明けました。1年前なら「大丈夫」とごまかしたでしょうね。強い向かい風もあって区間賞は運が良かっただけです。でも、達成感があった。

 結婚した05年に妻の出身地の静岡に来てやっと、当時のVTRが見られるようになりました。もしあの経験がなければ、今も完璧だけを追い求める人間で終わっていたかもしれない。そうだと、この(会社再建の)状況は耐えられなかったでしょうね(笑い)。【取材・構成 今村健人】

<91年早大2区:櫛部静二>

 【91年(1年)に2区で首位でタスキを受けたが、後半に大ブレーキに。フラフラになりながら、3区にタスキをつないだが、14位に転落した。92年(2年)2区9位、93年(3年)1区区間賞(区間新)、94年(4年)9区3位。エスビー食品などを経て、現在は城西大学駅伝部監督】

 15キロまでいいペースでした。でも実は20キロ以上走ったことがなかった。未知の距離に入って何だかおかしいなと思っているうちに体が動かなくなりました。重圧が原因ではなかったと思います。当時の目標はマラソンでの五輪出場。「たかが駅伝でなぜここまで緊張感があるのか」と思っていたほどです。ただ2日前に体調を崩していました。今考えるとノロウイルスか食中毒だったと思います。

 それまで大きな失敗や、レースで他人に迷惑をかけたことはありませんでした。だから衝撃は大きかった。以後、自分をコントロールできない状態がずっと続きました。またブレーキするんじゃないかと。「ブレーキの櫛部」と言われるのが嫌で、誰よりも練習しました。でもうまくいかない。いつしか「練習横綱」のレッテルを貼られました。

 転機は27歳。競技人生も終盤なのに五輪も遠く、もやもやも消えない。初めて心理学の先生にお世話になりました。自律訓練法(交感神経と副交感神経の調節法)やカウンセリングを重ね、1年間で大きく変わりました。翌98年は全日本実業団の1万メートルで優勝して、アジア大会にも出場できた。ここまで変われるんだなと自分でも驚きました。

 あのブレーキをきっかけに、いろいろ考えることがなかったら、学生を指導することもなかったと思います。ウチには一昨年ブレーキした選手がいるのですが、彼にも「大丈夫だ、すごく体が動いているよ」と声をかけています。でも、ブレーキから吹っ切れるまで10年弱ですか。かなりの時間がかかりましたね。【取材・構成 塩畑大輔】

 [2010年12月21日8時44分 紙面から]


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