戦前、テニスのウィンブルドン選手権で4強となるなど国際的に活躍しながら、1934年4月、欧州への遠征途上のマラッカ海峡で船から投身自殺した佐藤次郎選手の遺書が、このほど日本テニス協会で見つかった。

 佐藤選手は当時26歳。心身の不調を訴えながら、戦争へ向かう時代、国の名誉がかかるデビスカップ(デ杯)への欠場は許されず、期待に応える成績が挙げられないことを、死をもって国へ謝罪するとした悲痛な内容。

 同協会が古い資料を電子化する過程で数年前に見つけたが、一部関係者にしか知られていなかった。原本は、日本テニス協会の前身である日本庭球協会(当時)の事務局長、久保圭之助氏が作成したとみられる資料の中にとじ込まれていた。

 遺書は当時の堀田正恒会長宛て。「シンガポールに着く前日」に、用紙3枚に走り書きでしたためられていた。

 慢性の胃腸病を患い、物事に集中できないと精神的苦痛を明かし「とてもテニスが出来ません」と訴えている。デ杯代表の若い選手3人を引率した自身を「この醜態さ、何と日本帝国に対して謝ってよいか分かりません。その罪、死以上だと思います」と責め、「私は死以上のことは出来ません。生前お世話様になった同胞各位に礼を述べ、卑怯(ひきょう)の罪を許されんことを請う。では、さよなら」と結んでいる(原文は旧仮名遣い)。

 ◆佐藤次郎(さとう・じろう)1908年(明41)群馬県長尾村(現渋川市)生まれ。早大在学中の31年に全仏4強などで世界ランク9位。32年は全豪とウィンブルドンで4強。33年は全仏でペリー、ウィンブルドンでオースティンと英国の強豪を破りともに4強。ウィンブルドン複は準優勝、世界3位。しかしデ杯戦は32年にイタリア、33年もオーストラリア若手選手に敗れ、日本は欧州ゾーン決勝進出を逃した。