昭和が終わりを告げる直前の1988年(昭63)11月1日、田中将大は兵庫・伊丹市で生まれた。駒大苫小牧高、楽天、ヤンキースと野球界のトップを走り続け、楽天時代の13年には、無傷の24連勝でイーグルスを初の日本一へ導いた。先頭を切って平成を駆け抜け、新時代へ挑む怪腕。今、何を考え、どこを目指していくのか-。

  ◇   ◇   ◇  

田中は指導者に恵まれた。2010年(平22)オフ、1年限りで監督を解任されたマーティー・ブラウンに代わり、星野仙一が楽天の監督に就任した。言わずと知れた熱血漢。ルーキー時代の監督だった野村克也とは正反対とも言える闘将が、新たな師となった。

今年1月に他界した星野の姿を思い起こすと、脳裏には柔和な表情ばかりが浮かぶという。「確かに、表面的には厳しい方でした。でも、僕は本当によく気にかけていただきました。いつも、コンディションに気を付けるように言われてました」。ゆったりと諭すようにボヤく野村とは違う。ただ、すさまじいけんまくで怒鳴られた経験もない。田中にとって星野とは、常に気配りを忘れない心優しい紳士だった。

当時プロ5年目。2年連続2ケタ勝利をマークするなど、岩隈と並ぶダブルエースとして立ち位置を得ていた。同じ投手出身の星野は、田中に深い信頼を寄せた。「その頃、僕はある程度、出来上がっていたような部分があった。任されていたような感じでした」と独自の調整を認められた。

いざ試合が始まれば、軽率なミスがあれば容赦なく怒鳴り、納得のいかない判定があれば、ちゅうちょなく飛び出し、審判にかみついた。だが田中にすれば、その熱血ぶりも、プロとしてのパフォーマンスも、心の奥底で理解できていた。

「星野さんの日頃の優しさを知ってますから。グラウンドで怖そうな表情をされても、あまり気にしなかったです。僕もマウンドでは気迫を表に出して投げるタイプですから。しかも、裏ではすごくケアしてくださる。厳しい言葉になっても、気持ちは分かるような感じはありました」

田中自身、こと重要な場面では激情を抑えることなく、腹の底からほえてきた。感情を表に出すことでチームの士気を高め、ファンの心に訴えるスタイルは似通っていた。

2017年11月18日。都内で行われた「野球殿堂入りを祝う会」で同じ壇上に立ったのが、星野の笑顔を目にする最後の機会となった。わずか2カ月後に突然の訃報を耳にし、自身のツイッターにつづった。

「楽天イーグルスで日本一になり、星野監督を胴上げできたことは、僕の野球人生の大切な思い出です。メジャーでプレーすることを応援してくださいましたし、感謝の気持ちでいっぱいです」

楽天が初の日本一に輝いた13年オフ、田中は海を渡る決断を下した。最終的に背中を押してくれたのは、ほかでもない星野だった。(つづく)【四竈衛】