日本ハム元オーナーの大社啓二氏(63)が、伝統球団にとって激動の時代となった平成を振り返ります。まずは、2004年(平16)に本拠地を東京から北海道へと移転した経緯について。当時の経営状況や、日本ハム創業者である初代オーナー大社義規氏の深い野球愛も踏まえ、複数の候補地から北海道を選んでいく背景について語りました。

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日本ハムの2代目オーナー、大社啓二には今でも不思議に思っていることがある。1974年(昭49)から02年6月まで、米大リーグのヤンキースと業務提携を結んでいたことだ。

大社 ヤンキースとの業務提携だけは全然分かりません。なぜ、できたのか。なぜ、あのジョージ・スタインブレナーが、球団ができて間もない我々と業務提携をしてくれたのか、いまだに分かりません。

73年11月に日拓を買収して産声を上げたばかりの日本ハム球団とメジャーリーグで名門のヤンキースがなぜ、つながったのか。経緯は謎に包まれているという。

事実関係を整理する。強烈なリーダーシップで「ザ・ボス」と呼ばれたスタインブレナーが、低迷していたヤンキースを買収したのが73年1月。日本ハムが誕生する10カ月前からチーム再建に乗り出していた。日本ハムは球団経営に乗り出した直後にヤンキースと接触した。業務提携へ向けた交渉を開始したが、難航。そこで、立ち上がったのが初代オーナーの大社義規だった。

大社 これは、都市伝説のような話なんだけども、最初は話がなかなか進まなかったので、このままでは、らちが明かないと話を詰めにオーナーが通訳を携えて行ったそうです。スタインブレナーと2人で30分ほど部屋に入り、出てきた時には話がまとまったらしいです。交渉術がすごい人だと聞いたことはあるのですが、何があったのか…。とにかく、それで決まってしまったというのです。

ヤンキースとの業務提携後の81年にリーグ優勝を果たすが、提携解消まで優勝は1度だけ。それでも、昭和から平成へ向かう球団にとって、大きな意義があったと振り返る。

大社 ヤンキースに我々の選手やコーチが留学していた時に、マイナーの監督をしていたのがヒルマンでした。彼ならいいんじゃないかとなって03年から監督をお願いしました。これは、業務提携のネットワークが生きた例です。06年の日本一達成につながりました。仮に成果が、あれだけであったとしても結果的に我々が得たものは、ものすごく大きかったと思います。

トレイ・ヒルマンの監督就任が、偶然にも、現在の強固なフロント陣を支える人材を球団に引き寄せた。その1人がチーム統轄副本部長の岩本賢一(46)。当時メッツで新庄剛志や小宮山悟らの通訳を務めた岩本は北海道・旭川出身。地元への移転を決めた日本ハムで働きたい一心で球団へ履歴書を送り、ヒルマンの通訳として採用された。

大社 岩本賢ちゃんは、なかなか通訳として能力が高いですし、私に吉村さんを紹介してくれたのも岩本賢ちゃんでした。それは運と言ってもいいけど、きちっと熱意を持ってやることをやれば、こうなっていくんだなと思います。

岩本が米国時代に面識のあった現チーム統轄本部長兼GMの吉村浩(54)も05年から日本ハムに加わり、現在の「育成とスカウティングで勝つ」という仕組みが確立された。

初代オーナーが、スタインブレナーとひざをつき合わせた密室の30分間がなければ、日本ハムの歴史は変わっていたのかもしれない。(敬称略=つづく)【寺尾博和、木下大輔】