江川の作新時代を取材するうち、この「振り逃げ」のシーンに固執したい衝動に駆られた。この時江川が置かれていたポジションが確認できると思ったからだ。選手の声を集めた。

 亀岡偉民(作新3年捕手)ワンバウンドをちょっとそらした。送球しようとしたら一塁手がバツを出して、投げられなかった。投げていればアウトのタイミングだった。

 佐藤章雄(氏家2年一塁手=振り逃げで生きる)空振りしたのは外角低めカーブ。走りながら一塁手がバッテンしたのが見えた。ベースの前で一塁手を追い越した。セーフなら、ちょっとカッコ悪いと思いながら走ったから覚えてる。

 加藤勲(氏家3年投手=次打者席で待機) 私の場所から見て(亀岡は一塁へ)送球したと思う。どんな送球だったか、は覚えていない。

 今回、作新学院の一塁手、鈴木秀男には取材に応じてもらえなかった。ただ、昨年1月から3月にかけて朝日新聞に連載された「あの夏 1973年、銚子商×作新学院」の中で、このプレーを振り返っている。

 捕手から送球されながらタッチにいかなかったという状況が記述され、そのわけについて「送球がそれたからだよ」と。

 江川の印象は、こうだ。「(亀岡が)そらしたといっても、後方にチョロチョロ程度。鈴木(秀)がバツを出して(一塁の)前に出て(送球を)捕った。右打者だったし、塁に着いていればアウトのタイミングだったと思う」。

 各自の記憶の断片をつなぐと、こうなるだろうか。

 --捕手は球をそらした後捕り直して、送球体勢に入った。が、一塁手のバツ印に逡巡(しゅんじゅん)、送球のタイミングが遅れた。必定、ストライク送球とはならず。一塁手は捕手が投げると思わず、ベースに戻れない…。

 江川は言う。「もし、その試合が7月23日だったなら、一塁アウトで完全試合だったんだと思う。それも大きいんだけど、もっと大きいのは、(チームの)中のグチャグチャの方。険悪なムードがあるって確認できた、唯一の試合だった」。

 問題は、バッテリーが言う「早すぎるバツ印」。それは、当時のチームの意思疎通の欠如を示している。

 江川が投げると必ず記録に絡む。野手は守備で1球たりとも気を抜けない。早く緊張から解放されたい。

 2学年上の三塁手で「守備の名人」(江川)と形容された、熊谷組OBで現安田学園コーチの大橋弘幸でさえ、こう言って苦笑する。「江川が投げるとサードへの打球が一番多くなる。打てないからセーフティー(バント)狙ってね。結構処理したけど、嫌だったなあ」。

 江川らが3年夏の県大会の頃、作新ナインは誰もが疲弊していた。センバツでの驚異的見参以降、「江川見たさ」の招待試合が、全国から引きも切らず、週末ごとに飛行機での長距離移動を強いられた。1回の遠征では少なくても3試合が組まれ、これに沖縄国体、春季県大会、同関東大会から、夏の県大会へつながる“ヘビーローテーション”だった。そこへ取材陣の江川への一極集中が重なる。

 「俺たちがホームランを打っても、江川、江川…。みんな頑張っているのに何で江川だけなんだ!」。野手陣から不満が漏れ始め、それを吸い上げたのが鈴木秀男だった。不満をぶつける相手は江川ではなく、その“擁護派”を自任する亀岡偉民だった。「怪物」は、孤立していたのだ。

 江川は言った。「ノーヒットノーランは(味方が)エラーしたって何したって、オレ個人の力でできる記録。でも、完全試合は、全員がノーミスじゃないとできない。だから、チームの記録なんだよ。年に1回ずつ違うメンバーでやってきたんだから、やっぱり、やりたかった…」。

 3年連続の「記念日」が達成できれば、巣くう「不和」など存在しない。そう信じた江川が、突きつけられた厳しい現実だった。(敬称略=つづく)

【玉置肇】

(2017年4月5日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)