平均身長171センチの小兵軍団浦和市立が、甲子園にやってきた。県大会優勝さえ想定していなかったチームは、甲子園対策など当然していなかった。それでも「枠にとらわれない考え方」が、4強入りの快進撃を生んだ。

 夢のまた夢だったグラウンドに初めて立った甲子園練習。36歳青年監督の中村三四は「全部トンネル、暴投しなさい」と守備の“ミス練習”をさせた。ナインは指示通り、次々とミスを繰り返す。主将で左翼手の■手(そうて)克尚は「わざと球をそらして、ラッキーゾーンに当たって。クッションボールの処理の仕方も分かった」。

 1回戦の相手は古豪佐賀商。中村から「最低打率打線で打ってこい!」と送り出されると、予選の貧打がうそのような15安打の猛攻で5点を奪い、エース星野豊は9回2失点の好投。19個のゴロの山を築いて、失策も1つだった。

 88年は冷夏で、雨天で日程変更が多い大会でもあった。2回戦まで中4日。中村は異例といえる、チームの埼玉への一時帰宅を決断する。「大阪入りして10日ほどたって、慣れない生活で選手も疲れていた。ならば1度帰った方がいいだろうと」。現在は禁止されているが、当時は許可を取れば可能だった。

 星野は、地元のJR大宮駅で中学の同級生とバッタリ会い「何で埼玉にいるんだって驚かれました(笑い)」。控え捕手の斉藤雄一郎は、実家の運送屋を手伝った。配送先の家のテレビでは、甲子園の試合が流れていた。「『そういえば浦和の学校も勝ったね』と言われて。『僕もベンチにいました』って不思議な感じでした」。お盆時期の混雑や、事故などのリスクもあったが「学校の練習にもたくさんの人が応援に来てくれた。埼玉の代表という思いはより強くなった」(中村)。2泊3日の帰郷で心も体もリフレッシュすると、当時2年の仁志敏久(元DeNA)擁する常総学院(茨城)も6-2で撃破した。

 3回戦は、真中満(元ヤクルト)や、大会NO・1スラッガー高嶋徹(元オリックス)擁する宇都宮学園(栃木)が相手。この試合では、県大会前から練習してきたサインプレーが生きた。チームには、バントシフトなど守備のサインが50種類近くあった。毎週水曜は学校そばの市営球場でサインプレーの反復と決まっていた。「1つでも何かチームに自信をつけたかった。ピンチになっても怖くない、どんな形でも1つアウトをとれば喜べる時間があるという感覚を植え付けていた」(中村)。

 甲子園で初めて先制された6回、適時打を浴びなおも2死一、二塁のピンチ。一塁手横田和宣が一塁走者の背後から空けていた塁に入ると、素早く反転した星野がけん制でアウト。練習の成果を発揮して流れを引き寄せると、延長10回に4番横田の二塁打で勝ち越した。

 枠にとらわれない発想の背景には、中村の人生観があった。少年時代、長嶋茂雄の「野球は楽しく、グラウンドで常に明るい」プレーに憧れた。高校時代は川口工の捕手として関東大会出場の活躍も「野球ばかりではダメだし、何かに縛られる形も嫌だった」。浦和市立赴任前は、川口県陽(昨年統合で閉校)で定時制の生徒をあの手この手でまとめ、軟式野球全国大会に3年連続で出場、全国8強に導いた経験もあった。

 準々決勝の宇部商(山口)戦。3-3で迎えた延長10回裏。連打と犠打で1死二、三塁とサヨナラのピンチで迎えるは4番力丸隆之。だが、マウンドに集まり、ベンチからの伝令を受ける選手に笑顔があふれる。敬遠で満塁策がセオリー。星野はふぅと息をはくと、目いっぱい腕を振った。真っ向勝負。甲子園が、どよめいた。(敬称略=つづく)【大友陽平】

※■はクサカンムリに隻

88年8月、佐賀商に勝利し喜ぶ浦和市立ナイン
88年8月、佐賀商に勝利し喜ぶ浦和市立ナイン