甲子園に出場しなくても「伝説」は生まれる。阪神のエースから優勝請負人と呼ばれ、球界の伝説(レジェンド)とも言うべき存在である江夏豊(70)は高校時代、あこがれの甲子園大会への出場はかなわなかった。大阪府大会6試合で計81三振を奪った「あの年」を江夏が振り返る。

   ◇    ◇    ◇   

 毎年8月の甲子園大会、その開会式を江夏は自宅テレビの前で正座をして見守るという。阪神のエースから日本ハム、広島で不敵な面構えからの投球術で相手打者を翻弄(ほんろう)した江夏が、だ。

 江夏 70にもなってな。恥ずかしいんだけど。最近は膝が痛いので正座はなかなかできないんだ。それでも背筋を伸ばして真剣な気持ちで見ているのは本当だよ。そりゃあ、そうだろ。甲子園はあこがれだったし、夢だったし。出ることが最終目標だったよ。あれが、やっぱりオレの原点なんだな。

 プロ野球選手として、江夏はいくつも伝説をつくった。阪神のエースから南海、「江夏の21球」を生んだ広島、そして日本ハム時代。さらに西武を最後に日本球界を去った後、85年には当時では考えられなかったブルワーズの春季キャンプに参加してのメジャー挑戦で世間を驚かせた。そんな男が高校野球になると少年のように目を輝かせる。

 高校は当時、有名ではなかった大院大高。その頃の話になると、江夏は「オレたちは『私学6強』と言ってたな」と述懐する。PL学園、明星、興国、大鉄(現阪南大高)、北陽(現関大北陽)、そして浪商(現大体大浪商)…。大阪で甲子園に出るのはこの学校のうちのどこかに決まっていた、と強調する。

 そんな有名どころには行かず「のんびり野球をやっていそうや」という理由で選んだのが大院大高だった。甲子園にもっとも近くまで迫ったのは1966年(昭41)3年夏の大会。江夏の活躍で準決勝まで進んだ大院大高を始め、北陽、大鉄、そして公立の桜塚が残っていた。大阪・豊中市にある桜塚は、下手投げのエース奥田敏輝を中心に勝ち上がってきていた。

 江夏 どこと当たるんかなと思ってたな。抽選で桜塚に決まったとき、みんな、いや~な気分になったもんだ。PL、北陽、大鉄なら練習試合もしていたし、どんなチームか知っていたから。自信もあった。でも桜塚か。元々は女学校だったらしいぞ。勉強はできるらしい。いろいろな話をした。勉強では負けるけど野球では負けんぞ。そう思っていたけど、みんな、いやな感じは受けていた。奥田はそこまでオール完封。相手が桜塚に決まったとき、みんな、下を向いてたわ。

 江夏は66年のドラフトで阪神入りしたが、この奥田もその年にドラフトで指名されて阪神入り。同期生になっている。プロでの成績は大きく差がついたが2人は親友と呼べる仲になった。故人となった奥田の話をするとき、江夏は柔和な顔になる。だが、このときは甲子園を目指しての真剣勝負だった。

 大阪・日生球場。その3回だ。大院大高は遊撃の失策で走者を出してしまう。江夏は一塁にけん制球を投げ、走者を誘い出すことに成功したが一塁手が二塁に悪送球。次打者は送りバント。三塁手がさばき、三塁カバーに入った江夏に送球したが、これも悪送球になった。これで走者は生還。決勝点になり、0-1で江夏の夢は散った…。(敬称略=つづく)【高原寿夫】

 ◆大阪の夏甲子園 通算166勝87敗。優勝12回、準V5回。最多出場=PL学園17回。

96年、桜塚対大院大高OB親善試合が行われ大院大高のユニホームで投げる江夏氏
96年、桜塚対大院大高OB親善試合が行われ大院大高のユニホームで投げる江夏氏