東京大会を初制覇した帝京商(現帝京大高)に、思いもしないクレームがついた。1939年(昭14)のことだ。第25回全国中等学校優勝野球大会に、東京の代表校として出発する直前だった。

「選手の中に未登録の高等小学生が入っている」。相手校から指さされたのは当時13歳の1年生、杉下茂(92)だった。本人は「私はちゃんと入学試験を受けて、4月に入学していたんですよ。なのにねえ」。今でも納得できないという表情で、79年前の大会を振り返った。

帝京商に入学してから2カ月後、ある大会に借り出された。毎年6月、上野で開かれていた東京府の高等小学校大会だった。3月まで在籍した一ツ橋高等小学校が当時の神田区代表に選ばれ、同校から「杉下に出て欲しい」の申し入れがあったという。かつての仲間が残るチームだが、すでに中学生となっては、参加は許されない。ところが、帝京商は受け入れた。

杉下は前年、この大会に出場し、その活躍が注目されて、帝京商から誘いを受けていた。「大屋(克巳)という一ツ橋の先輩が帝京商にいたんです。そんなルートはあったんですよ」。当時の高等小学校は2年制だった。尋常小学校を卒業したあと、高等小学校に進むか、5年制の中学校に行くか。杉下は高等小学校を選んだものの、卒業を待たずに1年後、帝京商へ転入学していた。

帝京商はこのとき、杉下の一ツ橋高等小学校の在籍を大会終了まで延ばす形をとり、出場可能としたようだ。当人はそんな事情など知らないまま4番・投手で出場し、期待通りに優勝を導いた。「まだ子供だからいわれた通りですよ。終わったあと、一ツ橋に退学届を出して、帝京商には復学届を出したんだと思いますよ」。この出場が甲子園を台無しにする。

相手校から見れば、つい1カ月前、高等小学校の大会で投げていた投手が、帝京商ベンチにいる。あり得ないことだった。不正入学を疑う声さえ出たという。帝京商は、入学試験を受けた際の答案用紙まで持ち出し「入学試験を受けて、合格している。手続きは踏んでいる」とした。しかし、抗し切れないと判断したのだろう。最後には、出場辞退を申し出た。

つかんだはずの甲子園が目の前で消えた。選手たちのショックは大きかった。杉下も、つらい立場に置かれた。処分はなかったものの、周囲からの冷たい視線を感じていた。「もう何をするのもイヤになりましたよ」。最上級生は、練習に姿を見せなくなった。活気にあふれていたグラウンドは急に沈黙した。

強い帝京商に戻るまで出場辞退から2年もかかった。41年(昭16)夏、東京大会の決勝で京王商(現専大付)を14-0の大差で破り、優勝した。ところが戦局が深刻化する中、文部省次官通達が発せられ、運動競技の全国的な催しが一切禁止された。防諜(ちょう)上を理由に大会の中止を告げる報は出されないまま。

帝京商の甲子園は、選手たちの知らないところで、また消えた。(敬称略=つづく)

【米谷輝昭】


(2018年4月7日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)