夏の大阪大会、東大阪大柏原との初戦で敗退し、休部となったPL学園。当時のエース藤村哲平は関西国際大を卒業し、春に就職した。憧れのユニホームに袖を通したが、かつての常勝チームは休部目前で野球経験のない校長が監督。名門PL学園の3年間で得たものとは。【堀まどか】(後編は無料会員登録で読むことができます)

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5年前の夏の日、涙にくれる球児の言葉をスコアブックに書き留めた。

「今日は一生悔いが残る。そして一生胸を張れる試合です。悔いが残るのは校歌を歌えなかったこと。胸を張れるのは、このユニホームを着て試合ができたこと。でも、甲子園に行きたかった。この先どうなるかはわかりませんが、帰る場所を作っていただきたいです」

PL学園最後の主将になるかもしれない、梅田翔大の言葉だった。

2016年7月15日、全国高校野球選手権大阪大会2回戦・東大阪大柏原戦。その夏限りで休部が決まっていたPL学園は6―7で初戦敗退。甲子園春夏7度優勝の野球部史にいったん終止符を打った。

当時のエース藤村哲平と、あの夏の話をした。関西国際大を今春卒業し、車関係の会社に就職した藤村は「あの試合のことは、めっちゃ覚えています」と言って、口調を変えた。

「勝たないといけない試合でした」

5年前の取材は「PL学園最後の夏」にばかり焦点を当てていた。当時は聞かなかった言葉だった。

藤村は、続けた。

「PL学園は常勝なんで、常に勝つのは当たり前なんで。1回戦負け、っていうのはめちゃめちゃ恥ずかしい。恥ずかしかった。秋、春が1回戦負けだったんで、夏は、ほんまに勝たな。甲子園とかじゃなくて、まずは1勝しないといけない。そういう思いだったんで」

藤村や梅田主将にとって、2度と巡ってこない「高校最後の夏」だった。

部外者からすれば、藤村らの高校生活はすべてが異例の3年間に見えた。13年2月の部内暴力に端を発した半年間の公式戦出場停止後、野球部を取り巻く環境は激変した。同年10月からは、硬式野球の経験がない学校長が試合の指揮を執った。藤村らが入学した14年の秋に、15年度新入部員受け入れ停止が発表された。全国から好素材が集まり、物心両面で高校球界トップレベルの環境で力を磨き、甲子園で最強の歴史を紡いできたのがPL学園。そんな過去とは大違いの環境で、当時の部員たちはやりきれなさを募らせているのでは、と思いこんでいた。だが、藤村の思いは違った。

「普通に野球をやる環境は申し分ないくらい。室内練習場とかもあって、練習時間もめちゃくちゃある寮生活をしてるんで、そういう環境面とかは全然大丈夫やったんです。後輩が入ってこないことが決まった後も、残されたオレらでやるしかない、と。結構、結束は強かったと思うんで」

野球に精通した監督がおらず、後輩がいない状況でも、16年年明けの練習始動を取材したとき、主将の梅田は「決して、みじめにはならない」と前を向いていた。わずか12人の船出でも「1人が全力を出せばまわりは応えてくれる」と胸を張っていた。それが虚勢などではなかったことを5年後、エースが教えてくれた。

だが、夏の大阪大会初戦を翌日に控えた7月14日、悲劇が起きる。守備練習中に、正二塁手の河野友哉と外野の控え、正垣静玖(しずく)がボールを追って激突した。

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