夏の大阪大会、東大阪大柏原との初戦で敗退し、休部となったPL学園。当時のエース藤村哲平は関西国際大を卒業し、春に就職した。憧れのユニホームに袖を通したが、かつての常勝チームは休部目前で野球経験のない校長が監督。そして最後の夏の大阪大会初戦を翌日に控えた7月14日、悲劇が起きる。守備練習中に、正二塁手の河野友哉と外野の控え、正垣静玖(しずく)がボールを追って激突した―――。

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藤村 倒れたとき、河野は「行けます! 行けます! やらせて下さい」って、ずっと言ってたんです。でも、運ばれた先の病院から電話がかかってきて「もう、無理やわ…」って。病院に運ばれる姿を見て、ぼくも絶対これは無理やな、って思ってたんですけど。つらかったですね、あの日はもう…。

河野は左大腿(だいたい)部を骨折し、正垣は右肩を亜脱臼した。部員12人中、1人は記録員の土井塁人。土井は1年秋に急性リンパ性白血病を患い、入院で留年して15年夏に高校最後の大会を終えていた。出場可能な選手は11人の状況で、2人が大けが。右肩痛を抱え、代打の切り札だった藤原海成を左翼に入れ、なんとか9人をそろえた。

藤村にとって河野は、高校生活でだれより同じ時間を共有してきた親友だった。その河野と、最後の大会をやりきることができなくなった。「終わったな、と思いました」。心の支えが消えた。

だが翌朝、花園球場で、見たことのない光景を目にする。球場にあふれかえる人、人、人…。元阪神の木戸克彦氏、元巨人の吉村禎章氏、元ヤクルトの宮本慎也氏ら最強時代のOBがいた。さらに、一般ファンがスタンドを埋め、入りきれなかった観客が外周を取り囲んでいた。

藤村 PLを応援してくれる人が、こんなにおるんやと。

その観客の前で、PL学園のユニホームを着て試合をする。覚悟と責任感が胸にあふれた。4―5の7回1死二塁。藤村は、一時逆転を呼ぶ2ランを左翼スタンドに運んだ。生涯忘れない一振りになった。

「PL学園最後の~」の枕詞(まくらことば)で形容された夏。当時の12人は、学校の歴史を思いながらも、仲間と甲子園を目指す「高校最後の夏」を戦ったかけがえのない、高校最後の夏だった。

卒業後、藤村は関西国際大で神宮の大舞台を経験。土井記録員は東京国際大で、藤原は大阪経済法科大で4年間をやりきった。12人の結束は今も固い。

藤村 毎年忘年会でみんなと顔を合わせても、PLのときの話をするんです。全員参加くらい集まるんで。PL時代の、今やから笑える話、みたいなのをします。福井から前乗りして来る子もいます。1年間連絡取れんかっても、その忘年会にはひょこっと来たりするんで。おおお、元気やったん? みたいな。ずっと続けていきたいですね。

エースの声は弾んでいた。PL学園野球部は今も休部状態が続き、梅田が願った「帰る場所」はまだ戻って来ない。ただ、高校時代を笑って語り合える。そんな仲間に恵まれたのだ。【堀まどか】

◆藤村哲平(ふじむら・てっぺい)1999年(平11)2月1日、大阪・富田林市生まれ。彼方(おちかた)小3年から「彼方少年野球クラブ」で中堅手として野球を始める。富田林第三中では羽曳野ボーイズに所属し、当時は投手、捕手、三塁手、外野手。PL学園では2年秋から背番号1。卒業後は関西国際大に進学し、2年秋の明治神宮野球大会に出場。

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