写楽の役者絵で、まず頭に浮かぶのは「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」だ。今でもポスターやCMにしばしば登場する定番である。

奴江戸兵衛は歌舞伎の知られた敵役。人々の記憶に残るのは「主役より、それを食う悪役」の方程式が、江戸時代の昔から厳然と存在した証しである。この1枚で名前を残した三代目大谷鬼次にとっては役者冥利(みょうり)に尽きるだろう。

洋の東西を問わず、演技派と呼ばれる人たちにとって、奴江戸兵衛のような敵役ほどおいしいものはない。バットマン・シリーズの最大の宿敵ジョーカー役はその典型と言える。

89年のティム・バートン監督版ではジャック・ニコルソンが口裂けメークと高笑いで狂気を演じた。

08年のクリストファー・ノーラン監督「ダークナイト」ではヒース・レジャーがニコルソンへのリスペクトを込めながらさらにそのイメージを押し進め、すさまじいまでのジョーカー像を作り上げた。公開前にレジャーが急死。その年のアカデミー賞で故人としては2人目の助演男優賞が授与されるというドラマチックな展開も記憶に残っている。

16年のデヴィッド・エアー監督「スーサイド・スクワッド」では、激やせ激太りで変幻自在の役作りをするジャレッド・レトが、わずか10分足らずの出演シーンで強烈な印象を残した。

前置きが長くなったが、ジョーカーはハリウッドの歴史の中でも屈指の悪役であり、歴代演者のいろんな思いを背負った特別なキャラクターと言える。

トッド・フィリップス監督とホアキン・フェニックスが挑んだ米映画「ジョーカー」(4日)はただならぬ挑戦ということになる。ジョーカーはいかにして悪のカリスマになったのか。原作には無いそのいきさつを題材に、名優たちがそれぞれに想像しながら役作りしたであろうその背景を具体的に演じてみせようという試みなのである。

ご存じゴッサム・シティの格差社会。ピエロメークの大道芸で病床の母を養うアーサーは、同じアパートに住むシングルマザーにひそかに思いを寄せる心優しい青年だ。心的障害を抱えた彼は、周囲の理解を得られずに、少年のイタズラや同僚の何げないジョークに少しずつ心をむしばまれていく。

アメコミ世界の背景を「万引き家族」のようなリアリティーで解き明かしていくところがこの作品のミソで、一定の距離を置いて楽しんでいたコミック・ワールドに生身を持っていかれるような不思議な吸引力がある。

ぎりぎり持ちこたえていたアーサーの心はあり得そうな偶然の連鎖であっという間にダークサイドに引き込まれ、いつの間にか拳銃の引き金に手を掛けることになって…。

フェニックスの痛々しいほど骨張った体を思わず注視してしまう。24キロの減量では1日リンゴ1個で済ますこともあったそうだ。体を張った役作りについて本人は「壊れていく男の役はストレスを感じるものだが、むしろ解放感を覚えた」と振り返っている。まるで修行僧の解脱ではないか。

ピエロメークのアイラインを流す突然の涙、取りつかれたような踊り…目を離せない。いつの間にかニコルソンやレジャーの怪演が重なって見える。

フェニックスのジョーカーと対峙(たいじ)する番組司会者役にはロバート・デ・ニーロ。完全にイッてしまっている演技を受け止められるのはやはりこの人しかいないだろう。2人のやりとりには背中に冷たいものを感じる緊張がある。

濃すぎるジョーカーの歴史を踏まえ、フィリップス=フェニックスのコンビは飛びきり肉厚の作品に仕上げている。【相原斎】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「映画な生活」)