私が演劇記者になった1979年には、舞台の3大女優という呼称が流布していた。その3人と言うと、初代水谷八重子さん、杉村春子さん、山田五十鈴さんだった。後に国民栄誉賞を受章した森光子さんは当時はまだ59歳で、3人に続くポジションだった。

初代八重子さんは、79年10月に亡くなったので、舞台はその年の1月に出演した新橋演舞場「風流浮世ぶし」の橘之助、「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の亀遊を見ただけだった。もちろん、それ以前にもテレビの舞台中継やドラマなどで見ていたが、生の初代八重子さんの舞台姿を見ることが出来たのは幸運だった。以降、いろいろな人の亀遊を見ているけれど、八重子さんの独特の声とともに哀愁を帯びた美しい姿が印象的だった。その時、八重子さんは78歳だった。

亡くなった日は、初代林家三平さんが脳出血から復帰した高座を取材し、原稿を送り終えた直後で、八重子さんの訃報を知って、慌てて自宅に駆けつけた思い出がある。

杉村さんは新劇界の大看板で、「女の一生」「欲望という名の電車」など数多くの当たり役を持っていた。初めて杉村さんの舞台を見たのは、高校時代に地方公演の「華岡青州の妻」で、嫁いびりをする、憎々しい母於継(おつぎ)の演技は絶品だった。担当になってからは、杉村さんの舞台はほとんど見ていた。亡くなる前年の96年の「華々しき一族」が最後の舞台になったけれど、それも見ている。すでに体調は悪かったのだろうが、凜(りん)とした姿はそういうことを感じさせなかった。

杉村さんに救われたことがある。まだ、20代だった記者が宴席で酒に酔った江守徹さんにからまれたことがあった。その時に杉村さんの「もうおよしなさいな」と、舞台の決めぜりふのようなピシッとした物言いに、さすがの江守さんもシュンとなった。

山田五十鈴さんは「女座長」という言葉がふさわしい、東宝の看板女優だった。帝国劇場、当時は宝塚歌劇以外の舞台も上演した東京宝塚劇場、芸術座の常連で、住まいも帝国ホテルだった。「たぬき」「香華」「淀どの日記」などの舞台を見たけれど、今、山田さんの遺産とも言える舞台が見られないのは寂しい。山田さんはにぎやかなことが好きで、舞台の取材会も料亭などで行われることが多かった。隅田川の花火大会も、隅田川沿いの料亭の川に面した座敷の特等席から見たこともあったし、記者たち10人ほどの前で、得意の三味線を弾いてくれたこともあった。何ともぜいたくな時間だった。

11月2日には、杉村さんが900回以上も演じた名作「女の一生」の舞台が、大竹しのぶ主演で初日を迎える。次代の「舞台の3大女優」はどういう顔触れになるのだろうか。【林尚之】