三遊亭円楽さんが亡くなった。昭和の名人6代目三遊亭円生さんの孫弟子だった円楽さんは、晩年、6代目の没後に40年以上も空席だった「円生」を7代目として襲名することに意欲を見せていたが、「円生」という大名跡の復活はしばらくなくなったと言っていいでしょう。
昭和の名人といえば、円生さん以外には8代目桂文楽さん、5代目古今亭志ん生さんがいます。文楽は92年に直弟子が9代目を襲名したが、志ん生は73年の没後、50年近くも空席が続いていた。息子の10代目金原亭馬生さん、3代目古今亭志ん朝さんは亡くなっており、これまで何度か「志ん生」襲名のうわさが落語界を駆け回ったことがあるけれど、結局、実現しないままでした。
円生さんと志ん生さん、落語家としての芸風は、円生さんが練りに練った正統派、志ん生さんは自由奔放と対極にある2人ですが、戦時中の1945年5月に慰問のために出かけた中国・大連で終戦を迎え、日本に帰ることができず、大連で47年1月まで一緒に生活していたという。円生さんによると、最初は円生さんがおかずを作り、志ん生さんがお米を炊くという役割分担を決めたものの、志ん生さんは「おれはだめな男だ。不器用で何もできない」と泣き言をいって、円生さんがすべてをやったという。結論として、10歳年下の円生さんは「困った時の相棒として、まったく頼りにならない」と断言しています。その600日に及ぶ2人の大連での暮らしぶりを、井上ひさしさんが「円生と志ん生」という作品に書き、こまつ座でも何度か上演されています。
そんなこともあって、円生さんと志ん生さんは、両極端の落語家として、2人並んで取り上げられることが多い。そんな2人の名跡が落語界から消えて、長い期間が過ぎました。円楽さんが古希70歳になって円生襲名を言いだしたのも「円生という名前が落語界にいないのはもったいない」という思いからでした。自分がつないで、次の世代にバトンタッチしようとしていました。今後も襲名を巡ってさまざまな動きがあるでしょうが、いつかは落語界に戻ってきてほしいと思います。【林尚之】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「舞台雑話」)




