1975年(昭50)に「SUGAR BABE」の一員としてアルバム「SONGS」でデビューして50年。山下達郎(72)は、今、この瞬間も歌い続ける。
5日発売の2年ぶりのダブルA面シングル「オノマトペISLAND/MOVE ON」の1曲「MOVE ON」では、15秒のCM曲から初めて1曲を作り上げた。83年「クリスマス・イブ」をはじめ350曲超の楽曲で日本人の背中を押し続けた50年…それでも自らを「傍流」と評す、その心を聞いた。【村上幸将】
★日本語でロックを
山下は自身の世代を、日本語でロックを始めた、はっぴいえんどに続く第2世代と位置付ける。洋楽をベースにした楽曲が萌芽(ほうが)した70年代初頭の“ロックの取っかかり”の時期に活動を始めた第2世代はニューミュージック、J-POPと名を変え今に至る中で、特異なムーブメントを起こしたと評する。
「テクノロジーや政情不安は、カルチャーに大きな影響を与えるんです。60年代にレコードの録音技術が飛躍的に上がったことで、メインカルチャーは文字から音楽になりました。70年安保の時は、政治運動からドロップアウトし、音楽をやらなくてもいいような人間が音楽の世界に入り込んだ。それで、今までの定形になかったユニークなものが生まれたんです」
はっぴいえんど解散後、大滝詠一さんが設立したナイアガラ・レコードの第1弾アーティストとなったSUGAR BABEだが「SONGS」をリリースしたエレックレコードは3カ月後に倒産。印税は1銭ももらえず、76年解散。昭和歌謡とは違うロック自体、市民権を得ておらず、演奏する場も少なかった。
★皆、売れなかった
「ロックは皆、売れなかった。ロフト、JIROKICHIという自主で始めたところができるまではライブハウスもなかった。SUGAR BABEはライブハウスの動員は良かったけれど、他のバンドと対バンをやると受けないし、ヤジられる。ロックは客を乗せてナンボ。でも僕らは内省的なことをやっていた」
78年ころにサザンオールスターズ、世良公則&ツイストが音楽番組をにぎわせるようになるまでテレビの出演もかなわなかった。それが、テレビに出ないというポリシーへとつながった。
「テレビはスタッフが日参しても『ダメ、ダメ』と言われて。ツイストやサザンオールスターズの時代になったら普通に出られたんですよ。僕らの時は出られなかった。SUGAR BABEでのテレビ出演はテレビ神奈川の『ヤング・インパルス』1度きり。生演奏した映像が1曲だけ残っている。売れた後に『出してやる』と言われて『結構です』と断ったら『テレビ拒否派か』となって。だけど、あなたたちが出してくれなかったんじゃない。だったらライブとレコードで別にいいじゃん、と」
★「70%、運」と断言
ソロでも、厳しかった。
「初めの4年は結構、大変だった。親に勘当される寸前だったし、食いぶちは他で稼がないとならなかった。広告代理店の人が、大滝さんの後ろでゴソゴソやっていたのを見て『CMやってみるか?』と。三愛のバーゲンが最初。次が不二家のハートチョコレート。コーラス、作曲、編曲…できることは何でもやった」
「これが最後だと思って」出した78年「GO AHEAD!」の1曲「BOMBER」が大阪のディスコで火が付き、80年「RIDE ON TIME」で、ついにブレークした。
「70%、運です。僕より才能がある人なんていくらでもいたけど残れなかった人もいる。分かつものが何かは分からない。選ぶのはお客さんの耳。ついてきてくれるので続けていられる」
一貫して、大切にしてきたことがある。
「日常です。観客と自分の距離をなるべく詰めたいというか…始めた時から、ずっと同じ。それが失われていないか確認したいんで(キーボード難波弘之、ベース伊藤広規と)3人ライブを始めました。普通に生きている人間が一番、偉いんですよ。大衆に奉仕しなきゃダメ」
★「MOVE ON」
「MOVE ON」も、日常という視点が通底された1曲と言えよう。ダイハツの軽乗用車「MOVE(ムーヴ)」のCM曲だが山下自ら、運転している。
「ムーヴ キャンバスに乗っているんです。軽自動車&裏道マニアなので、小さい車のデカいエンジンが好き。(乗っていると)知って話が来たわけじゃない。偶然でした。(82年の)『SPARKLE』みたいな曲を書いてくれってリクエストで。(CMサイズ15秒から)1曲にしたのは初めて。10日くらいでできたんですけど、車のCMは大変なんです。運転する時の疾走感を出さなければならないので…映像との整合性がとても大事で、それと自分の音楽的ポリシーが合致すれば言うことなしです」
車輪が回る音が、左の耳から脳を通って右の耳にグッと伝わっていくような聴感が印象的だ。歌詞の冒頭を英語、途中から日本語にしたのにも意味がある。
「今回は冒頭を英語で始めることでサウンドにある程度の抽象性を与えています。そうすることで時の試練に耐えるものにしたかった。陳腐化しないように」
★自ら「傍流」と評す
楽曲は近年「シティ・ポップ」として海外でも人気を集める。なぜ自らを「傍流」と位置付けるのか。
「テレビに出なきゃ、芸能人としては一流とは言えないでしょう(笑い)。将来は裏方に行くと思っていた。82年にMOON RECORDSを作った時、ビジネスパートナーに『何年やりゃあいいんだ?』と話したら『90年まで頑張ってくれ』と。その時は37歳だから最初で最後の武道館をやって引退して制作部長になるつもりが、90年に『クリスマス・イブ』が1位になって。でも97年ころまでは辞めたらどうする? と考えていました」
貫いてきたことがある。
「小さなプライドですけど…レコードの印税とライブのギャラでしか生活してきませんでしたから。80年代に、夫婦でCMに出たら1億円という話があった。そんなのやったら曲なんて書けませんよ。印税なんてCD1曲で3円75銭ですから。曲を書くのって結構、地獄です。命を削るって言ったら大げさだけど、悩んでる時に、CMやったら4000万円だよなと、フッと思う…50年やって350曲も書くと、ますます追い込まないと曲なんてできませんから。昔、ある女性タレントの人から『汗水たらして働かなくたってCM3本やればバッチリよ』って言われて。あんたと俺は違うからって…そういう発想でやってたら、ものなんて作れない」
今年も全国ホールツアー「PERFORMANCE2025」を始めた。
「海外公演のオファーもあるけれど、海外に行く暇があったら地方で行けていないところに行きます。番組(TOKYO FM『山下達郎のサンデー・ソングブック』)を33年やっていて、最近は『手術した時に達郎さんの曲を聴いて…』とか、すごく増えた。まだまだ役目はあると思っている。真面目に働いている人たちのために音楽をやってきた…それだけは全く動かないし、譲らないです」
市井の人を思い、書いた曲は50年、日本に流れ続け、72歳になった今も全国のホールが観客で埋め尽くされる。客席に向かい山下はハグのポーズを送る。かけがえのない愛と感謝をかみしめながら…。
◆山下達郎(やました・たつろう)
本名同じ。1953年(昭28)2月4日、東京・豊島区生まれ。76年3月にSUGAR BABE解散後、初のソロアルバム「サーカスタウン」をリリース。84年の米映画「ビッグウェイブ」で初の音楽監督を担当。「クリスマス・イブ」は昨年まで39年連続でオリコン週間シングルランキングTOP100入り。82年に竹内まりや(70)と結婚。血液型B。









