作曲家・古関裕而氏はプロ野球の巨人阪神だけでなく、大学のライバルの早大と慶大にも、それぞれ応援歌を作曲しています。慶大の「若き血」に対抗して作曲した「紺碧の空」が有名ですが、早慶戦で両校が一緒に歌える「早慶讃歌-花の早慶戦-」も作曲しています。古関氏の応援歌への思いが分かる作品です。【笹森文彦】

古関氏は22歳だった31年(昭6)に早大の応援歌「紺碧の空」(作詞・住治男)を作曲した。慶大は4年前の27年に「若き血」(作詞作曲・堀内敬三)を発表。「若き血に 燃ゆる者 光輝みてる 我等…」と歌う圧巻の応援が、東京6大学野球の早慶戦で早大を圧倒していた。

早慶戦の勝敗が大学の雰囲気、学生の士気に影響していた時代だった。早大応援部は起死回生の応援歌制作に乗り出した。新進作曲家の古関氏に依頼した。「紺碧の空仰ぐ日輪 光輝あまねき伝統のもと…」が、31年春の早慶戦で初めて披露された。選手も応援も奮い立った。伝説の「三原脩のホームスチール」などで勝利し、早慶戦の連敗を5で止めたのだ。

戦後、古関氏は46年に慶大応援歌「我ぞ覇者」(作詞・藤浦洸)を作曲。さらに翌年の47年に早大の「ひかる青雲」(作詞・岩崎巌)を作曲した。両曲とも宿敵を倒し勝利を目指すという本質は変わらないが、戦争を経て新たな時代を迎えた変化も現れた。敵対ではなく、友情を深め合おうという意識だった。

60年代後半に入ると、価値観が多様化し、学生の連帯感は希薄となった。かつて「花」と言われた早慶戦も、両校の成績不振もあり入場者数は激減した。67年5月、早大応援部と慶大応援指導部が「早慶戦の重要性の再認識と学生のムード高揚のために、両校の学生が一緒に歌える歌が必要」と合意。題名を「早慶讃歌」として、作詞を慶大出身で「我ぞ覇者」を手掛けた藤浦洸氏に依頼した。「東京キッド」(美空ひばり)や「別れのブルース」(淡谷のり子)の作詞家である。作曲は早慶両校にゆかりある古関氏に依頼した。

古関氏はこの時の思いを早稲田学報に寄せている。「なんと素晴らしいことであろうか。この計画を聞いて、両校の着想に敬服した。世界中のカレッジ・ソングの中で、ライバル同士の学校が、共通して歌う歌があるであろうか。実に世界でも初めての試みである。何とうれしい、スポーツマンシップにあふれる企画ではないか。私は、その日からこの曲の構想を立て、1日として頭から離れることがなかった(一部略)」。

「早慶讃歌」は今もさまざまな競技の早慶戦で歌唱されている。歌声は、古関氏が願った敬意と友情の思いにあふれている。

昭和から平成に変わった89年8月18日、古関氏は80歳で死去した。音楽葬が9月14日に東京・青山葬儀所で営まれた。「早慶讃歌」も演奏された。閉会で退場する遺骨を、早大の校旗と慶大の三色旗が感謝と惜別の思いを込めて見送った。

明日は「栄冠は君に輝く」です。