近年では、天海祐希の7年目に次ぐ9年目のスピード就任だった。退団公演「桜嵐記(おうらんき)」「Dream Chaser」に臨んでいる宝塚歌劇団月組トップ珠城りょうは、トップ就任と同時に大きな看板を背負った。

退団発表翌日の会見では、天海の名前を出して自らを語られたことに「失礼だから、やめてくれと思っていました」と苦笑しながら吐露。「今まで耐えて、背負ってきたものを少しずつ…おろしていっていいのかなって…思うようになった」と、声も震わせた。

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実直な人柄をあらためて感じさせた。それこそが、終始一貫して抱いてきた珠城のイメージだった。

初取材は、まだ入団4年目だった。2度目の新人公演主演への思いを聞いた。抜てきによる重圧にも真正面から立ち向かい、「体育会系なので」と笑っていた。

3歳から水泳スクールに通い、小学時代はバスケットボール部で活動しつつ、陸上県大会で高跳び2位に入ったこともあった。中学時代はハンドボール部主将。未来のタカラジェンヌの大半が歩む道のりとは大きく離れた、スポーツ一筋の少女だった。それゆえ、度胸は「ある」と胸を張っていたのも印象に残る。

初取材から翌年には宝塚バウホール公演で初主演。振り返れば、トップまでの道を猛進していったが、そのたび、取材で「実直な言葉」を発し続けた。

当時の月組には、元月組トップ龍真咲、元花組トップ明日海りおの「アイドル系」「フェアリー系」と呼ばれるタイプなど、さまざまなタイプの男役がいた。いろいろな先輩たちへのあこがれはあっただろう。

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だが、珠城は下級生時代から「私の持ち味は骨太な男らしさ」と言い切り、早くから自分の個性、武器をしっかりと把握していた。

16年9月、男役10年の世界で9年目にしてトップに就くと、本拠地お披露目作を前にした取材でも、珠城節が飛び出した。

「こんなに未熟なのに、主演男役と言われた時は心が乱れ、ざわつきました」

上級生もいる中でのトップ抜てきに賛否があることを知った上で、「人気商売ですし、私、宝塚に向いてないと思って」と心情を吐露したことも。きれい事ではない。飾りもない。自分の言葉で、素直な思いを口にし続けてきた。

同時に、珠城らしい言葉も出ていた。つらく苦しく、悩んだときの原動力を問われると…。

「最後は、なんとかなるって思うんです」

爽やかな笑顔に健やかな心身。「体育会系」らしく、乗り越えられぬ壁はないという思いで前進し続けるタフさがあった。

背伸びはしない。持てる力を出し切るだけ-。そんな己の道から常に外れることはなかった。目指した男役像も新人時代からぶれることなし。男役としての体形にも恵まれ、包容力のある骨太な男らしさを極めてきた。

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その集大成が、退団公演だ。芝居演出の上田久美子氏が珠城をイメージして「幹が太く大きく、まっすぐな木」という主人公像を描いた。上田氏とは、新人時代から縁があった。上田氏の宝塚バウホールデビュー作が、珠城のバウ初主演作「月雲の皇子」だった。

今作稽古時のインタビューで、珠城は「(上田先生には)節目、節目でお世話になっていて、一緒に挑戦してきたところもある。先生も『月組の皆さんはともに戦ってきた戦友みたいな印象がある』と、おっしゃってくださった」と顔をほころばせていた。

最後の公演は6月21日に兵庫・宝塚大劇場での千秋楽を迎え、本拠地に別れを告げた。東京宝塚劇場の開幕は7月10日、同千秋楽の8月15日をもって退団する。「珠城りょうとして、男役としての力量をすごく試されている」と感じた有終作。「男役・珠城りょう」の完成を目指して、実直に、まっすぐに突き進んでいる。【村上久美子】

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