昨年1月にコンプライアンス(法令順守)で全ての芸能活動を休止していた、フリーアナウンサー生島ヒロシ(75)が、4月から文化放送でパーソナリティーを務めることが16日、分かった。17日に発表される。
生島が1998年(平10)からパーソナリティーを務めた、TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」を電撃降板したのは、昨年1月27日のオンエア後。コンプライアンス違反が問題となり、あと5回で放送7000回の節目を迎える直前のことだった。
生島は「今まで経験したことのないショックでした。呼吸も乱れるような感覚がありました。自分の中で、何かが一気に崩れ落ちたんです」と振り返る。
その日の夜にNHKのニュースで自分の顔が映し出されたのを見て、事の重大さを突きつけられた。「自分の人生でやってきたことが、全部否定されたような気持ちになりました。ああ、もうダメだと本当に思いました」と眠れない夜が続いた。
外出するのが嫌になり、世間のすべてが自分を責めているように思えた。夜道を夫人と歩いている時に「まるで犯罪者みたいだね」と言われたのは、今も胸に深く残っている。「存在価値がゼロになったような気がしたんです。周りの人みんなが、自分を悪く思っているんじゃないか。そういう気持ちから抜け出せなかった」と振り返る。
長年、ライフワークとしてきたラジオの仕事も失った。支えてくれたのは、家族や黙って手を差し伸べてくれる人たちだった。順天堂大医学部付属順天堂医院の天野篤元院長は、事情を一切聞かずに食事とゴルフに誘ってくれた。それに応ずる気力さえ生島にはなかった。
生島は2011年(平23)の東日本大震災で故郷の気仙沼が大きな被害を受け、妹夫婦が亡くなった。天野元院長は「生島さんは宮城の星、東北の星なんだから。もう74歳でしょう。いつ死んでもおかしくない年齢なんですよ。だったら、ここで終わってどうするんですか。命があるんだから、もう一度立ち上がらないと」と励ました。
その言葉を受けて、生島は「せっかく命があるのだから、このまま沈んでいるだけじゃいけない」と思うようになってきた。外に出て食事をする気持ちになり、人から声をかけられ、励まされ、多くの本を読んだ。多くの人に失敗があり、挫折があり、どう立ち直っていったのか、自分は何が悪かったのかを見つめなおす時間となった。
半年ほど過ぎて、ボランティア活動に参加するようになった。能登半島では、炊き出しの現場に入った。テントを張り、鍋や釜を用意した。特別養護老人ホームでは高齢者と向き合い、障害のある人たちが働く現場も訪れた。
気仙沼では、震災後も子どもたちの活動を支え続けてきた。「自分が励ますつもりで行ったのに、逆に自分の方が生きる力をもらったんです。自分も頑張れる。まだ終わってはいけない」という気持ちが湧いてきた。
コンプライアンス(法令順守)についても一から学びなおした。痛感したのは「自分では意識していたつもり」と「相手がどう受け止めたか」は違うということだった。「周波数が合う人とはうまくいく。でも、合わない人とどう向き合うか。それをきちんと学ばなければいけなかったんだと思います」と振り返る。
文化放送で番組が持てるかもしれないという知らせが入った時は「本当にうれしかった。人間って、希望があると生きる力が出るんです。セカンドチャンスをくれた、その勇気に報いないといけないと思いました」。
ゼロからではない、むしろマイナスからのスタート。謹慎期間中に味わった後悔、悔しさ、人の温かさ、感謝-。それらすべてがこれからの自分をつくる糧になると信じている。



