9年前の2011年5月5日、巨人小笠原道大内野手がプロ野球史上38人目の2000安打を達成した。高校時代は通算本塁打0本の無名選手が努力と周囲の支えで大記録を打ち立てた。15年に引退するまで積み重ねた安打は2120本。通算打率3割1分は落合博満に次ぐ歴代9位。今季からは古巣日本ハムでヘッドコーチを務め「ガッツ魂」を後輩に伝えている。

翌5月5日付の日刊スポーツでは1面トップで伝えた。

【復刻記事】

フルスイングでつかんだ勲章だった。巨人小笠原道大内野手(37)が阪神6回戦(東京ドーム)の8回、小林宏から中前打を放ち、プロ野球史上38人目の通算2000安打を達成した。残り11本で開幕を迎えながら、達成まで17試合を要した。それでも史上4位のスピード記録となった。高校時代は本塁打0本。努力を継続して3割を超える生涯打率をマークしつつ、大記録を打ち立てた。「ガッツ」が球史に名を残した。

打球が二遊間を突き抜けた瞬間、小笠原は「よしっ」とつぶやいた。8回1死。「負けていたから、何とか出塁しようという気持ちで立った」。1ボール2ストライクからの4球目144キロは内角高めの厳しい球。初安打から5108日間続けてきたように、ボールにバットを的確にコンタクトさせた。一塁に着くと、「ふーっ」と息を吐いた。キャッチボールの相棒でもある坂本、守備に就いていた阪神新井貴からも花束を受け取ると、360度に、深々と頭を下げた。「巨人ファンだけでなく、阪神ファンの人たちも祝福してくれた。感謝の気持ちでいっぱい。それだけすごい記録なのかなと思いました」と、大記録の重みを実感した。

「運がある」。自らの野球人生をこう表現する。「周りの人たちが一生懸命動いてくれて、ある意味、レールが敷かれてあったのかな」。千葉・暁星国際高時代は本塁打0本だったが、恩師・五島監督が「30本ぐらい打ったんです」と社会人チームにアピールしてくれていた。日本ハム時代のコンバートも、当時のコーチだった古屋氏が「失敗したら自分が責任を取る」と進言していた。そんな事実を、後に知った。2人に共通するのは「真面目で努力家」という小笠原評。「いろんな人が協力してくれて、挑戦の場を与えてくれた」(小笠原)。実直さと真摯(しんし)さが、周囲を動かしてきた。

さだめをも動かした。1996年のドラフトで、日本ハムに3位で指名された。指名順が後だった巨人も「小笠原道大」の名前を3位の指名用紙に記していた。小笠原は、日本ハムのユニホームに袖を通した。入団3年目での内野手転向を契機に才能を開花させ、日本を代表する強打者に。ドラフト会議から約10年の時を経て、06年オフにFAで巨人に移籍した。日本ハム山田GMは「本人も、もしかしたら、頭の中に『巨人でやりたかった』ってのがあったかもしれないよね」と言う。運命が微妙に交錯する、不思議な縁。プロ入りしたときに本拠地だった場所で、違うユニホーム姿で大記録を達成した。

それでも小笠原は何も変わらない。「投げてくるボールに対して集中して打っていく。それの、毎打席の積み重ねだね」。高校時代から、グラウンドには最初に来て最後に帰った。5つしかないティー打撃用ネットを真っ先に確保した。五島監督が「まさかプロに行くとは」と振り返るように、天才肌ではない。順風満帆でもない。だが、運のひと言では片付けられない。今季は思うように安打が出ず「なかなか貢献できず、歯がゆいのはあった」。それでも「後悔はしたくない」と、日々の積み重ねを怠ることはなかった。「長い人生、順調にいくばかりではない。こういう経験を生かさないといけない」と、今回の苦労も教材にするつもりだ。

試合終了直後、悔しそうにロッカー室へと消えた。チームが敗れたからだ。「みんなはその先(3000安打)を期待しているんでしょうが、そこに1本でも近づければと思いますが、今年のチームの優勝が一番です。そのために1本でも多く、シーズンを過ごしていきたい。チームの勝利が一番」。チームの勝利のために打ちたい―。向上心とフォア・ザ・チームの精神は尽きない。ガッツのゴールは、はるかかなたにある。

<日本ハム在籍時、内野守備走塁コーチだった古屋英夫氏が当時の秘話を語った。捕手だった小笠原の一塁転向を助言し、今の礎を築いた裏にはどんなエピソードがあったのか―>

彼は捕手で入団したけど、捕手としてのレギュラーは難しいかなと思った。捕手ではダイビングで指をついたりしていたし、東京ドームでファウルボールを追いかけてけがをしたこともあった。

でも、打つ方はずばぬけていた。みんなが認めていた。「目いっぱい振れ」って言っても、普通はできないんです。フルスイングができる筋力、ヘッドスピードが抜けていた。あと、ぶれない体。大きいタイミングの取り方をしているように見えるけど、コンパクト。「1打席じゃもったいない、でも捕手じゃきつい」。スタッフミーティングで、そんな話をしていた。

では、4打席立たせるにはどうすればいいかと。それでコンバートしようとなった。当時の上田監督に「一塁一本でいきましょう」と話しました。小笠原には「一人前にしてやるから、言うことを聞いてついてくるか?」って言うと「お願いします」って、言ってた気がします。

一塁にした理由は、社会人の時に二塁をしていたんかな。それと、捕手だったから、投手に声も掛けられる。彼にはチームを引っ張ってほしかったから、バッテリーに近いところで助言できる一塁手にしようということになった。いきなり二遊間は難しいし、三塁には片岡もいたからね。

素質はみんな納得していましたけど、実は半信半疑だった。でも、本人に不安を感じさせるといけないから「一塁以外は補欠だよ」と言い切った。ダメだと他で、ってなると身も入らない。足もあったから外野の方が無難かもしれないけど、逃げ道をつくらないようにしたんです。僕らも強くなりたくて必死でしたね。

キャンプでは、ほとんど守備に時間を割いた。とにかく、捕れるやつは全部捕れと言った。とんでもないボールにも食らいつき、自分で気持ちを盛り上げていたのを覚えていますね。守れないと使われないと、分かっていたんでしょう。捕れないボールに飛びついたり、けがをされたら困るのに、むちゃをするところがあった。そういう姿勢を、投手は見る。「そのプレーならしょうがない」って納得する。そういう姿勢を見せていたから「小笠原がエラーをするならしょうがない」ってなっていったね。

あのまま一塁転向がなければ「いい左打者だね」で終わっていたし、2000本なんてところもなかった。今は巨人のプレッシャーの中でもやってる。すごいよね。これから先も、今のままでいいんじゃないですか。今は代わりの主将に任命されているけど、背中とか数字で引っ張る方が向いている。また目標を上にして、3000本は難しいと思うけど、目指すぐらいでやってほしい。

ひょっとしたらひょっとするかもしれない-。そう思わせてくれる選手なんだよね、小笠原は。

◆高校時代の恩師・五島卓道監督(現木更津総合高監督) 苦しみましたね。でも生みの苦しみですかね。素直におめでとうと言いたい。小笠原は普通の選手でもこうなるという、我々の希望の星。(安打数を)伸ばしていってほしいですね。

◆プロ1年目の日本ハム時代の打撃コーチだった加藤秀司氏(元阪急) 練習でベストスイングできないバッターは、打席でも打てない。人一倍、努力をしてきた。プロ入りしてきたときに「3年やってダメだったら辞めます」と言いながら、厳しい練習についてきたのを思い出した。まさに努力の結晶だ。

◆中日落合監督は小笠原について「よそ様のことは知らない。聞く人間を間違えている。オレが(監督を)辞めたら話すよ」とライバル球団の指揮官という立場からコメントを拒否。ただ、日本ハム在籍時から打者として高く評価しているだけに、その後は「まだ2000本じゃねえか。2000本で(小笠原が)辞めるならお疲れさんだけどまだやるんだろ。何がそんなにめでたいんだ?」と、さらに上を目指せというオレ流のメッセージを送っていた。

▼小笠原がプロ野球38人目の通算2000安打を達成した。初安打は日本ハム時代の97年5月10日の西武7回戦(西武)で石井丈から。出場1736試合での達成は56年川上1646試合、71年長嶋1708試合、72年張本1733試合に次ぐ4位のスピード記録だ。残り11本で今季を迎えたが、開幕から17試合で11安打はレギュラーとなった99年以降では最も遅いペース。史上4位のスピード達成も、最後は苦しんだ。

小笠原は3安打が136試合、4安打が28試合、3安打以上の猛打賞が164度。猛打賞の回数は歴代9位タイだが、2000安打到達時では川上の170度、張本の168度に次いで多い。99年からシーズン10度以上の猛打賞を11年続けたのはプロ野球記録で、固め打ちの多さが4位のスピードにつながった。また、昨年まで規定打席に到達した12度のうち10度が打率3割以上。プロ通算打率3割1分4厘は、2000安打以上の打者では若松(.31918)張本(.31915)に次いで3番目の高打率だ。

◆小笠原道大(おがさわら・みちひろ)1973年(昭48)10月25日、千葉県生まれ。暁星国際からNTT関東を経て、96年ドラフト3位で日本ハム入団。2年目までは捕手だった。日本一となった06年オフにFAで巨人へ移籍。00、01年最多安打、02、03年首位打者、03年最高出塁率、06年に本塁打、打点の2冠。06、07年MVP。04年アテネ五輪、06、09年WBCで日本代表。178センチ、83キロ。右投げ左打ち。今季推定年俸4億3000万円。

※記録と表記などは当時のもの