男子走り幅跳びの橋岡優輝(22=富士通)は8メートル10で6位だった。日本勢が36年ベルリンオリンピック(五輪)銅の田島直人から85年間、遠ざかるメダルには届かなかったが、84年ロサンゼルス五輪7位の臼井淳一以来、37年ぶりの入賞を果たした。メダル圏内だった記録は、自己ベスト8メートル36の実力からすれば、十分に狙えるものだっただけに、悔しさをにじませた。

試合が終わると、橋岡はスクリーンに目をやった。3位は8メートル21。「確実にメダルを狙えたな」と実感した。そして、最終6回目に8メートル41で逆転金メダルを獲得したテントグル(ギリシャ)の姿を目に焼き付けた。ギリシャ国旗を誇らしげに背中にまとい、歓喜に浸っている。親交があり「いいジャンプだったね」と祝福すると「アブナカッタヨ」と日本語で言われた。ほほ笑ましい会話もあったが、「この悔いを返す。3年ある」。24年パリ五輪への思いを強くした。

最高は7メートル97で迎えた最後の6回目。「やるしかない。けがをしてもいい」。その覚悟は、助走位置へ向かう時にも表れた。これまで冷静な表情のまま向かっていたが、1度、ほえた。体が少し浮いていた助走は、鋭さを取り戻した。ただ記録は8メートル10まで。歴史的なメダルには12センチ届かなかった。両手を広げ、深々と一礼。その後、こみ上げる感情を抑えるように、強く唇をかみしめていた。

五輪前に戦った6月の2試合は、デンカチャレンジ杯の8メートル23と自己記録の更新だった日本選手権の8メートル36。いずれも銅メダルの数字を上回っていた。その事実も、悔しさを増幅させる。「経験不足だったのかな」。予選から中1日。周りはトップ選手ばかり。独特の雰囲気がある試合で、体は想像通りに動かなかった。

父利行さん(57)は棒高跳びで日本選手権5連覇を含む7度優勝、母直美さん(52)も100メートル障害で高校総体3連覇。まさに華麗なる一族で育ったが、これからは世界を日常にしていく。来年以降は拠点を海外に移すことも検討する。

「もっと海外選手と知り合って、いい雰囲気で試合に臨むことも必要。パリで金メダル獲得を実現できる力を付ける」

この日、焼き付けた光景、心に刻まれた感情は原動力。3年後、次の五輪。そこで日の丸を掲げる。【上田悠太】

◆橋岡優輝(はしおか・ゆうき)1999年(平11)1月23日、さいたま市生まれ。同市・岸中から陸上を始める。八王子学園八王子高から本格的に走り幅跳びに専念し、3年時は高校総体、国体、日本ジュニア選手権と高校3冠を達成。18年世界ジュニア選手権金メダル。19年世界選手権は8位に入り、日本勢初入賞。趣味は釣り、ゲーム。183センチ、75キロ。