上野は13年たっても、世界のエースだった。日本が2-0で米国に勝利し、金メダルを獲得した。

相手は13年前の決勝と同じ宿命のライバル。先発した39歳の上野由岐子(ビックカメラ高崎)が被安打2に封じ、勝利投手となった。2年前は代表を辞退しようか悩んでいたが、顎に打球が直撃したことによる手術を機に、決意を固め、その使命を果たした。競技人生の全てを懸けたマウンドで最高の結果をもたらした。

   ◇   ◇   ◇

最終回は上野だった。金メダルだ。米国に勝った。何より自分にも勝った。7回裏2死走者なし。悲願まで、あと1人。大きく息を吐き、投じた89球目は捕邪飛に。我妻が捕った瞬間、両腕を高く突き上げた。13年前の北京に続く歓喜。その中心となった。

「感無量。13年間、自分が背負って、いろんな思いをして、ここまでこられた。投げられなくなるまで、絶対に投げてやるという思いでマウンドに立った。最後にこうやって恩返しができて本当によかった」

最後-。競技人生の全てをささげた先発は5回まで無失点。6回の先頭打者に左前打を許し、1度はマウンドを降りた。リエントリーで最終回にマウンドに帰ってきた。最後は3人締め。上野らしい圧倒的な投球で、最終回のドラマなど生み出させなかった。

代表を辞退すべきか-。本気で葛藤し、悩んでいた。わずか2年前のことだ。

「もう北京でやりきったから。もう1度、五輪という気持ちと向き合えなかった。本当に自分は五輪に出たいのか。正直、自分の気持ちの中で『出たい』というのが大きくなかった」。

北京で投じた「伝説の413球」を超える何かが東京にあるのか-。分からない。「周りの期待も感じていたし、必要とされていることは分かっていた」。目標を問われると、口では「金メダル」などと言ったも、内面からの熱いものじゃない。14年、膝の故障で引退を覚悟し、宇津木監督から「続けることに意味がある」との言葉を胸に現役でいたが、日の丸を背負う闘志は湧かなかった。心は揺らいでいた。

そんな20年4月27日。試合で打球が顎を直撃。倒れ込み、救急搬送された。患部には1・5センチのプレートが2枚埋め込まれた。口も満足に開けられない入院生活のベッドの上で思った。「『いつまでも駄々こねてるな』。そう神様が怒っているんだな」。腹をくくった。気がつけば、自らに打球が直撃した映像を、何度も何度も見返していた。恐怖心を向上心が勝った。なぜ反応できなかったか-。事故でなく、己の未熟さ、体のバランスが崩れていると捉えた。迷いは消え、覚悟に満ちた姿があった。立ち上がりで球が荒れていた2回には安打性の打球に反応して併殺。自らを助けた場面は、そのたまものだった。

世界の上野は13年の時を経て、39歳になっても、そのままだった。あの413球-。集大成の東京五輪。この上ない伝説に、また新たな1ページが付け加えられた。【上田悠太】

◆上野由岐子(うえの・ゆきこ)1982年(昭57)7月22日、福岡市生まれ。小3でソフトボールを始める。柏原中、九州女高(現福岡大若葉高)を経て01年にルネサス高崎(現ビックカメラ高崎)に入社。日本代表のエースとして04年アテネ五輪で銅メダルを獲得。1次リーグの中国戦では完全試合を達成。08年北京五輪では準決勝以降、3試合を1人で投げ抜き、金メダル獲得に貢献した。世界選手権では12、14年で金メダル、06、10、16、18年で銀メダルを獲得。174センチ、72キロ。

◆リエントリー(再出場) 1979年のISF(国際連盟)ルール改正で採用。先発した選手は、1度試合から退いても、1度に限り、再出場することが認められている。ただ元の打順を引き継いだ選手と交代する必要がある。違反し、相手からアピールがあると「再出場違反」。違反選手と監督が退場になる。