泣いた。込み上げる思いが、次々とあふれてほおを伝った。男子PTS4(運動機能障害)の宇田秀生(34=NTT東日本・NTT西日本)が、1時間3分45秒で銀メダルを獲得。結婚直後に右腕を失う事故から8年、絶望からトライアスロンに出合い、パラリンピックを目指した。アスリートのプライドで想像を絶するトレーニングを積み、たどりついた表彰台。胸のメダルが、涙と汗に濡れて輝いた。

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ゴール後、宇田はなりふり構わず泣いた。「いろいろと込み上げるものがあって…」。コースに座り込んだ。顔を覆った左腕から、涙がこぼれた。パラリンピックは「やってきたことを見てもらう発表会」と話していた。言葉通り、日の丸を振って笑顔でゴール。直後に涙があふれ出した。

「すべてを出した」レースだった。苦手のスイムは8番手で終えた。バイクで巻き返して3位、さらにランで1人抜いた。「何があっても諦めないと決めていた」。暑さ対策の効果もでた。「いろいろあったけれど、幸せ」と話した。

13年5月10日、忘れもしない。働いていた建設会社で機械に巻き込まれた。生死の境をさまよい、気付いたのはベッドの上。右腕はなかった。横には4歳年上の妻亜紀さん。5日前に結婚したばかりの新妻のおなかには、第1子もいた。宇田の心を絶望から救ったのは、亜紀さんの言葉。「大丈夫。何とかなるよ」。

子どもの頃からサッカー一筋。滋賀・水口高時代は県選抜で、1学年下の野洲高・乾貴士とも一緒にプレーした。スポーツには自信があった。亜紀さんとの会話の中で出てきたのが「パラリンピック」。それが、前を向く原動力になった。

次々と友人が見舞いに来るたび、千羽鶴が増えた。その数1万2000羽。リハビリで始めた水泳がトライアスロンの入り口になった。もともとランとバイクには自信があった。事故から2年、試しに出た大会で2位に入った。「苦しかった」から夢中になった。

本格的に大会に出ると、結果はすぐ出た。世界大会で上位に入り、メダル候補になった。「左腕だけで、あれだけ踏めるのは信じられない。すごい背筋」と、視察した元自転車五輪代表でもある橋本聖子・大会組織委員会会長。健常者に負けない練習の量と質が、驚異的な肉体を作った。

レース後、すぐに亜紀さんに電話をした。「お互いに泣いて、会話にならなかった」。2人の息子の「おめでとう」にも涙で言葉が出なかった。「一番近くで支えてくれた。感謝しかない」と、目を腫らした。

「障がい者でなく、アスリートとして見てほしい」と言う。「量も質も健常者に負けない練習をしているので」と胸を張った。どん底を味わったからこそ培われた強いメンタル。「これで、トライアスロンが広がれば」。まだ五輪メダルのない日本トライアスロンを引っ張るほどの勢い。涙が乾いた宇田の瞳が、まぶしく輝いた。【荻島弘一】

◆パラトライアスロン 五輪競技の半分の距離で行われ、パラリンピックでは16年リオデジャネイロ大会から正式競技。障がいに応じ男女各6クラスに分かれるが、今大会で行われるのは各4クラス。PTWCのランはハンドサイクル、PTV1の自転車はタンデムが使用される。統括する国際競技団体は五輪と同じワールドトライアスロン。国内では日本トライアスロン連合が統括する。

◆宇田秀生(うだ・ひでき)1987年(昭62)4月6日、滋賀・甲賀市生まれ。滋賀・水口高-関西外語大。小1から大学までサッカー部で活躍。大学卒業後に建設会社に勤め、26歳の13年に事故にあう。15年にトライアスロンデビューし、同年のアジア選手権優勝。17年には日本人初の世界ランク1位(現在4位)になる。家族は妻と2男。169センチ、58キロ。