女子サッカー日本代表「なでしこジャパン」が11年W杯ドイツ大会を制してから、17日で丸10年となった。優勝メンバーのMF川澄奈穂美(35=ゴッサム)は長年、主力として活躍。14年に期限付き移籍で米女子プロリーグを経験し、16年からは米国を主戦場とする。18年を最後に遠ざかる代表は、東京五輪1次リーグ初戦のカナダ戦(21日、札幌ドーム)から悲願の金メダルを目指す戦いに入る。王国でもまれる川澄が今、なでしこに贈る言葉とは-。【取材・構成=松本航】

   ◇   ◇   ◇

スタジアムの屋根を突き破りそうな歓声が、なでしこジャパンを包み込んだ。11年7月17日、フランクフルト。米国との決勝は2-2で延長戦を終え、PK戦に入った。相手の1人目、MFボックスのシュートをGK海堀が体を倒し、伸ばした右足で止めた。4万8817人の観衆は立ち上がり、叫び、指笛を鳴らした。決着は4人目のDF熊谷がつけた。抱き合って倒れると、そこに次々と仲間が覆いかぶさった。当時25歳の川澄も夢心地だった。

「勝ったらうれしい。負けたら悔しい。その感情の最上級版でした。(延長を含めた)120分プラスPK。全ての瞬間が楽しかった。仲間たちと戦う一瞬一瞬をかみしめていました」

息つく間はなかった。試合開始から20分間、過去3分け21敗で未勝利の米国にのみ込まれた。2カ月前の親善試合も共に0-2で2連敗。準決勝のスウェーデン戦で2得点し、2試合連続先発を勝ち取った川澄も、思わず「アメリカが本気出している。すごすぎてやばい」と笑うほどだった。

それでも耐えられた。追い続け、体を寄せ、運も引き寄せた。失点は後半24分。ビハインドとなったが、冷静でもあった。後半途中出場のFW丸山が右サイド、自らはトップの位置にいた。監督の佐々木則夫の元へと歩み寄り「入れ替えませんか?」と提言した。「そうしよう」という返事を聞き、右サイドに入った。

1点を追う、後半35分だった。相手陣右奥でボールを保持していた米国DF。川澄はタッチライン際で縦のパスコースを封じた。中央方向へ斜めのパスが出た直後、それを奪いきった。

「あの時間帯でも疲れはなかったです。なでしこで、ずっとこだわってきた戦術でした。外に自分が立って、中にパスを出させる。誘って、狙い通りでした」

瞬時に攻撃を開始。前を走るFW永里にボールを託した。中央の丸山が体を張り、こぼれ球をMF宮間がゴールに押し込んだ。スタジアムが揺れた。延長前半14分、相手FWワンバックに再び勝ち越し点を献上。それでも諦めなかった。

「リードされても気持ちはなえなかった。不思議と『よし、1点取り返そう』と鼓舞しあっていました」

08年に代表初招集され、MF澤ら先輩選手の「こだわり」を肌で感じた。自由な意見が尊重される一方、選手同士で1つのプレーに対しても徹底的に話し合う。そして最後は体を張る。ひたむきさは伝統だった。延長後半12分。左CKを澤が右足で合わせ、土壇場で追いついた。世界一の頂に細部の積み重ねで着いた。

「優勝で環境は一気に変わりました。他国からのリスペクトも感じました。それまでは『女子サッカーを人気にしたい』。それが『低迷させたらいけない』という気持ちになりました」

12年ロンドン五輪銀メダル、15年カナダW杯準優勝。世界は日本を研究し、16年リオデジャネイロ五輪は最終予選で敗退した。川澄は米国でもまれた。イメージと実際の感覚は違った。

「『個でうまいだけじゃないんだ』と思いました。仲間がいい仕事をした時の反応にも、選手間の信頼関係を感じます。スピード、フィジカル、高さ等々で劣る日本は『もっと束にならないとな』と感じました」

なでしこジャパン入りの思いは常に頭にあるが、東京五輪は外から見守ることになった。願いは1つだ。

「心が震える試合ってあると思う。オフサイドを知らない人も『気づいたら、こんな時間まで応援していた』となる試合をしてほしい。五輪金メダルを知らないので偉そうなことを言えませんが、泥臭く、心を動かせるぐらいのことをしないと取れないと思います」

10年前を知る五輪代表は主将の熊谷、FW岩渕のみ。時代が移り変わっても、なでしこが大切にする伝統は変わらない。

◆川澄奈穂美(かわすみ・なほみ)1985年(昭60)9月23日、神奈川県出身。日体大を卒業し、08年にINAC神戸入団。同年に代表デビューし、通算90試合20得点。14年にシアトル・レインへ期限付き移籍し、16年に完全移籍。19年からスカイブルー(現ゴッサム)に在籍。20年夏から約4カ月の期限付きでINAC神戸に復帰。11、13年はなでしこリーグMVP。11、15年W杯、12年ロンドン五輪出場。157センチ。