秋風が冷たく感じられるようになった。季節の変化とともに、あの東京オリンピック(五輪)・パラリンピックはもう随分と前のことのように思う。コロナ禍に揺れた日本にあって大きな出来事だった。思い起こせば、さまざまな場面がよみがえる。中でも、パラリンピックのトライアスロン(男子運動機能障害PTS4)の宇田秀生(ひでき、34=NTT東日本・NTT西日本)選手の姿は強く印象に残るものだった。
■肩甲骨から下を失う大事故
8月28日、右肩から下の腕がない選手が懸命に走っていた。その姿に息をのんだ。2着でゴールすると、左腕で顔を抑えて号泣した。ここまで来るのに途轍(とてつ)もない苦労があったのだろう。強く心を揺さぶられた。どういう選手なのか? 興味が湧いた。
2013年、勤務先で就業中にベルトコンベヤーに右腕を巻き込まれ、肩甲骨から下を失う大事故に遭った。結婚からわずか5日後。そんな幸せな日常が暗転した。一命を取り留めると、リハビリの延長で水泳に取り組み、そこからトライアスロンでパラリンピックを目指すことになった。その経歴にあって「元サッカー少年」が目に留まる。高校時代は滋賀県高校選抜で元日本代表の乾貴士選手とも一緒だったという。
会っていろいろと話を聞いてみたくなった。パラリンピックで銀メダルを取った時のこと、これまでの苦労、情熱を傾けたというサッカーのこと。そして、あの夏の熱気を遠くに追いやる秋風が吹く季節となり、オンラインでの対面が実現した。笑顔が爽やかな、気さくな人物。レース当日の涙から聞いた。
「ケガをしてからいろいろあって、あのゴールにたどり着いた。やってきて良かったなと。泣いている時は、それまで支えてくれた人だったり、一緒にトレーニングしてきた人だったり、さまざまな人の顔が浮かんできました。これで大丈夫だと安心したというのもありました。応援してくれた人がいたからこそ、競技を頑張れたのだと思います」
銀メダルを取ったことへの実感はない。ただ、競技者として「スポーツの力」というものを強く感じたという。
「応援によって背中を押してもらえる。力をもらえますし、そういう目に見えない力というものを感じました。支えてもらった人たちに、ちょっとは恩返しできたのかなと思っています」
■小1から大学までサッカー
事故に遭ったが、スポーツによって日常を取り戻した。「体を動かすことが好きで、ケガをして何もやらないという道はなかったと思います」。根っからのスポーツマンだ。「サッカー少年」。小学1年生で兄の影響でサッカーを始めた。そこから関西外語大卒業まで約16年、サッカーに打ち込んだ。滋賀の伝統校、水口(みなくち)高時代は滋賀県高校選抜に選ばれた。当時は「セクシー・フットボール」と呼ばれた攻撃サッカーで全国を席巻した野洲高の全盛時だった。
「僕らの代の野洲高校が全国制覇しました。滋賀県のレベルは高かったかもしれません。ボクも一応、滋賀の代表に選んでもらっていたので、それなりに頑張っていたと思います」
小柄(現在の身長は169センチ)ながら、運動量豊富なミッドフィルダー。ボランチとして攻めに守りに、とにかく誰よりも走っていたという。
「とにかく走り込みの多いサッカー部というか、結構なボリュームで走っていましたし、厳しい高校だったと思います。野洲は真逆というか、色が違いましたね。乾君は1個下でしたけど、でも一緒に選抜に入ってやっていました。うまかったですよ、本当に」
当時の滋賀県選抜には、川崎フロンターレ、セレッソ大阪などでも活躍した楠神順平選手(現在は関東2部の南葛SC所属)もいた。同学年で今も交流があり、パラリンピックでの活躍も気にしてくれていた。
「喜んでくれていましたね。こういうところでつながって、またそれがうれしい。南葛SCの試合もすごく見たいです。イニエスタよりも見に行きたい(笑い)。ボクも体が小さいので、小さい選手の方が応援したくなる。順平も小さい(170センチ)ですからね」
情熱を傾けた大好きなサッカーとあって話は尽きない。サッカー少年だった頃、この人に憧れた。同じく「ヒデ」と呼ばれた中田英寿さんだった。
「見ていた世代ですからね。ポジションも近いというか、一緒だったし、プレースタイルが好きでした。センスを生かしたプレーというか、たくさんのパスコースを持っているところだったり、体も強かった。日本人がヨーロッパでできるんだということを証明したモデルというか、偉大な選手だと思います」
今も強く記憶する中田さんのプレーがある。ペルージャに在籍した1998年11月29日のセリエAのピアチェンツァ戦で、後方のFKからゴール前へ入った浮き球を鮮やかなオーバーヘッドでゴールした場面だ。
「あのオーバーヘッドはすごくイメージに残っています。めちゃくちゃマネしました。みんなで練習して、結構いいところまでいきましたよ」
中田さんのクールないでたち、従来のスポーツ選手にない姿にも共感した。
「かっこよくて、個性がありました。そういう部分は大事だと思いますね。競技者は競技力も大事ですけど、それプラス人間性だったり、人としてのおもしろみだったり、そういうのはボクも大事にしていきたいとは思います」
■物事を大きく捉えすぎない
宇田選手が在籍する日本トライアスロン連合は、健常者と障がい者が一体となっている国内でも珍しい競技団体である。それゆえ強化合宿では、健常者と切磋琢磨(せっさたくま)し、競技力を磨く。もともとサッカーで鍛えられた体に、根っからの負けず嫌い。健常者にも大きな刺激となっている。同連合の広報、大岩葵さんはこう話してくれた。
「パラの選手を見て、オリの選手も成長するところをまざまざと見ています。アンダー23の選手とか一緒に合宿させてもらっているので、宇田選手の普段の生活だったり、トレーニングに打ち込む姿を見て、目に見える形で成長していくのは宇田さんの力です。すごいなと思います。私たちも宇田さんが障がい者ということを忘れることがあります」
次は2024年にパリで開催されるパラリンピックに出場することが目標だ。一方で障がい者に対する社会の見る目や、生活基盤となるインフラが、今回のパラリンピックを機に変わっていくことも願っている。
「障がい者に対する周知というか、もっと距離が縮まっていくんじゃないかと思います。障がい者と健常者がどんどんフラットになっていったら、変な気も使わなくてすみますし、お互い住みやすいと思います。ボクは海外へレースで行かせてもらいますが、海外の方が、障がい者に対して温かな目線が飛んできます。ボク自身も、ケガするまでは障がい者やパラスポーツと接点がなかったですからね」
障がい者となって気付いたことは多いという。だからこそ、自分にできること、社会のために何かを、という思いは強い。そこで、人生で一番大事にしていることって何ですか? と聞くと、こう答えてくれた。
「楽しむこと。常に楽しむことを持っている。何か1個でもそういうものをもっていれば、頑張ろうという気持ちになる。後は、物事をあまり大きくとらえすぎない、ということです。事故する前からそういうスタンスではありましたけど、事故をしてからより強くなったかもしれない。死にかけているので、大体のことはどうにかなるじゃないですけど、あまり大きく物事をとらえすぎると、力も入り過ぎます。本来のパフォーマンスでも、緊張しすぎてしまうのかなと思います」
飾り気のない言葉だった。その上で忘れてはいけないのが事故を経験し、周りの支えがあって今があるということだ。妻からかけられた言葉が忘れられない。
「なんとかなるよ、って言ってくれました。それが大きかった。最終的に自分がハッピーであればいいんじゃないでしょうか。自分が楽しんでいないと、周りにも楽しい人が寄ってこなくなると思います」
山あり谷あり、懸命に人生を走り続けてきた。事故を起こした当時、妻のおなかの中にいた長男は7歳となり、サッカースクールにも通うようになった。「公園で子どもの相手をするのがおもしろい」と笑う。こんな幸せな未来があるなんて想像できなかった。だから、大きなカベにぶつかった若者がいれば伝えたい。
なんとかなるよ-。
【佐藤隆志】(ニッカンスポーツコム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)