湘南ベルマーレがルヴァン杯初優勝を飾った。初めて進んだ決勝で横浜F・マリノスを1-0で破った。前半36分にMF杉岡が左足ミドルシュートを決めて先制し、この1点を守りきった。J1昇格4度、J2降格4度の「エレベータークラブ」が、経営危機や主力流出といった苦難を乗り越え、タイトルにたどり着いた。優勝賞金は1億5000万円。

1968年に藤和不動産サッカー部として産声を上げてから50年の節目の年。湘南が紆余(うよ)曲折を経てルヴァン杯の頂点に立った。94年にベルマーレ平塚としてJリーグに参入し、95年元日の天皇杯で優勝。元日本代表中田英寿、呂比須ワグナーを輩出し、名門の道を突き進むはずだった。だが、99年にメインスポンサーのフジタが経営再建のため撤退し、00年から長いJ2生活へと入った。

04年、大倉智氏(現東北社会人リーグ・いわきFC社長)が強化部長に就任。後に湘南の社長になる大倉氏は「世界のサッカーは走っている。走らないとサッカーではない」と、06年6月に就任した菅野将晃監督とともにユースを含め「走る湘南スタイル」の礎を築いた。続く反町康治監督もそのスタイルを継承し、09年にはJ1昇格を決めた。だが、選手にかける人件費は当時、浦和レッズなどビッグクラブの10分の1程度。走ることはできても、技術がJ1レベルに達していない現実に直面し、わずか1年で降格した。

そこからクラブは、ベテランを獲得するのでなく、若手を育て、その伸びしろにかける方針へと転換した。反町監督の最終年となる11年、現在の主軸であるFW高山薫(30)ら若手を主力に起用。12年に曹貴裁監督が就任すると、DF遠藤航(現シントトロイデン)、MF永木亮太(現鹿島アントラーズ)と、後に日本代表に名を連ねる「原石」を起用し、次々と頭角を現した。

だが、育った若手の逸材は、他クラブの目に留まり選手が引き抜かれていく。J1だった16年は遠藤、永木ら主力6人が移籍。MF菊地俊介(27)の長期離脱もあり、リーグ戦10連敗の泥沼にはまりJ2へ降格した。だが「湘南スタイル」の定着と、若手が日本代表へと羽ばたく環境を示したことで、新たな風が吹いた。

DF杉岡大暉、MF金子大毅(ともに20)ら将来の「日本代表候補」が「若手も積極的に起用してもらえる」と他クラブのオファーを断って湘南を選んだ。リオデジャネイロ五輪代表候補になったMF秋野央樹(24)は「走る、戦う部分を磨きたい」と柏から、ベテランのMF梅崎司(31)も「自分自身の成長のために」とハードなトレーニングを覚悟の上で、浦和から加入を決めた。

今年のルヴァン杯の1次リーグでは、4月18日のサガン鳥栖戦で先発にプロA契約選手が4人しかいなかった。リーグ規約の「最強のチームによる試合参加」(A契約と外国籍選手合わせて6人以上を先発起用)の基準に達せず、制裁金600万円の処分を受けた。もちろん、故意ではない。練習で動きのいい若手を先発に選んだ結果で、監督もクラブスタッフも違反に気付かなかった。

だが、その試合で抜てきされた大卒新人のDF坂圭祐(23)は今では不動のセンターバックに、同じく新人のMF金子は今回の決勝進出の立役者になった。サブと主力の区別なく、プロ1年目でも活躍する舞台が与えられるクラブだからこそ、成し遂げたルヴァン杯優勝だった。

00年からの湘南ベルマーレとして4度目のJ1の舞台でつかんだタイトル。今年4月、フィットネスクラブを運営するRIZAP(ライザップ)グループの傘下に入り、ライザップは20年までに10億円以上の出資を約束している。「若手が育つ→選手が抜かれる→戦力ダウンで新シーズンを迎える」という負の連鎖を断ち、選手の給料をアップできる体力を得られるようになった。

新体制では当初「20年までにJ1、天皇杯、ルヴァン杯いずれかの獲得、収容率NO・1、満員のスタジアムという結果をコミットします」と宣言したが、予定より2年早く結果にコミットすることになった。

湘南の真壁潔会長(58)は「目標を決めて、しっかり宣言すると、うちみたいにコツコツやっている選手がいるところに、神様はその目標に近づくようにしてくれているんじゃないかな」としみじみ。湘南が市民クラブからビッグクラブへの階段を昇り始めようとしている。【岩田千代巳】