肝不全のため、76歳で亡くなった高校サッカー界の名将、小嶺忠敏(こみね・ただとし)さん(長崎総合科学大付監督)の葬儀・告別式が9日、長崎県南島原市内で行われた。

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式には、日本サッカー協会の田嶋幸三会長(64)も出席し、弔辞を述べた。

元日本代表でJ3のSC相模原の高木琢也監督(54)、J3北九州の小林伸二スポーツダイレクター(61)や、元日本代表FW平山相太(現仙台大コーチ=36)ら教え子を含め、約1500人が駆けつけた。

前日夜の通夜にも参列した国見高出身の高木監督は、昨年10月に話したのが最後となった。恩師と対面して「脳裏に焼き付いているのは、写真にあった(遺影の指導者)姿しか浮かんでこない。眠っている姿を見て、悲しいものがあった」と語った。

小嶺さんから「人間形成の部分を学んだ」とも言い「ゆっくり休んでほしい」と言葉をつないだ。

肝臓など内臓を患い、持病の悪化にも負けず、指揮を執り続けた小嶺さん。長女ゆりさんによると、昨年12月18日、長崎・大村市で行われたプリンスリーグ九州参入戦では、現地まで行ったものの、体調不良により試合後、長崎市内の病院に救急車で運ばれたという。結局、そのまま入院することになった。

その間、妻厚子さんとゆりさんが交代で看病したが、「ずっと寝ている状態で、良くなったり悪くなったりの繰り返しだった」。それでも、本人は「東京に行きたい。(選手権中に)ここで、生徒に申し訳ない」と、最後まで、選手権大会、そしてサッカー部への思いを口にしていたという。

葬儀では、ゆりさんがあいさつ。その中で「第100回大会の全国大会も、何度も病院を退院する、生徒の待つ東京に行きたいと訴え続けました。父の帰りたい場所は生徒たちがいるサッカーグラウンドでした」と選手権への思いを語った。病床にありながらも、選手権での指揮復帰を願っていたが、願いはかなわなかった。【菊川光一】

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