今、スタニスラフスキイという方が書いた「俳優修行」という本を読んでいます。もう絶版になっていて、ネットであちこちの古本屋を探してようやく手に入れました。とある俳優さんに仕事でお会いした時、舞台のための本というのはいろいろあるけれど、源流はこの本に行き着くんだとおっしゃっていたのでどうしても読みたくなったのです。

これまで競技時の集中に関する本をそれなりに読んできましたが、少なくとも今まで私が読んできた本の中で、この本が具体的にどう集中するかに関して最も詳細に描かれていて驚きました。考えてみると、自分の体を扱うということから、舞台とスポーツは類似点が多いです。

本は1人の俳優志望の若者の視点で、舞台作家が俳優の卵たちにトレーニングを施し、議論を続ける形で進んでいきます。その内容が驚くほど具体的かつ、人間心理の核をついています。

本の中で、舞台の上で役者は「それをしているように見せる」という落とし穴に容易にはまってしまうのだと警告します。その行動を本当だと思って集中して行えと言います。しかし、素人目に見て舞台の上は全てが作られたものですから、当然シナリオに沿ってとっている行動は自分の本心から出たことではなく、あくまで観客に見せるための行動ではないかと思います。しかし、舞台作家はそれでは納得しません。むしろそのような見せつけの演技は一番簡単にはまり込みがちで、しかもそれにはまってしまうと抜け出すのが大変だから、決してそちらに行ってはならないと警告します。

舞台作家は、舞台の上で財布を探すとあるならば、本当に舞台の上で探さなければならないと言います。それこそが人を感動させる演技だけれど、皮肉なことに人を感動させようと行う演技はすでに見せつけのわなにはまっていると言います。

しかも、一度舞台の稽古を行って財布がどこにあるかを見つけた後も、毎回本当に財布を探さなければならないと言います。観客がいる中で、すでに何度も繰り返して財布がどこにあるかを知っているにもかかわらず、毎回初めてかのように探さなければならないというのは想像するだけでとても難しいことです。

実は競技の場でもこの「それをしているように見せる」ということは容易に起きます。私たちはそれを集中していないと表現します。

試合の時は観客がいます。ライバルもいます。しかも何度も繰り返した行為です。体は勝手に動きますから、一応試技は成立します。しかし、その時の競技者がどこに集中しているかは本当にまちまちです。

人間が集中するとその対象は一点に置かれます。ところが、この一点に集中し続けることがとても難しいのです。観客の声が聞こえる。横のライバルが調子良さそうだ。そういえば、さっきのスタートの動きはあれでよかったのだろうか。人間の頭は、1つのことだけではなくいろんなことが連鎖して浮かぶようになっています。この連鎖を止める、もしくは浮かんでも引き戻し続けるというのが集中するということだから、正確には集中しているというよりも、意識が他に行くのをかわし続けているというのに近いです。

これをうまく扱う力が「もし」の力だと舞台作家はいいます。もしもこうであったならという具体的な状況を想像し、それによって情動を動かし、行動にリアリティーを与えよと。これは競技者にとっても、とても大切な力ではないかと思いました。

とある金メダリストと会話した時、その人が水の中にいるような印象を持ちました。話しかけても少し遅れて反応し、振り向くのです。目がぼんやりとしていて、話しかけてもなかなか振り向きません。これは勝負どころでは本当に強いだろうなとも思いました。五輪の勝負を決める時の演技で、全く視点が動かなかった彼の姿が思い浮かびました。トップアスリートに会って、想像以上にボーっとしている印象を持たれた方もいるのではないかと思いますが、私はボーっとして見えるということは、周囲に集中を引っ張られない特性でもあると思っています。(為末大)

(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「為末大学」)