「土江先生は『おれがお前に9秒台を出させてやる』といってくれない」

 京都・洛南高3の桐生は高校総体と世界選手権の路線を走りまくった。当然、多くの大学から勧誘がきた。柴田監督には「自分で決めればいい。ただ次に決める指導者はお前が一生教えてもらう指導者だぞ」と言われた。父康夫さんにも「自分で決めればいい。ただ何をしにいくか、よく考えること。普通の学生生活を送るわけじゃないんだから」。桐生は自分の意思で理論派の東洋大・土江コーチに師事することを決めた。

 順風満帆に見えたが、心の中に葛藤があった。高校最後となった13年秋の東京国体で「10秒01から半年間、どうして記録が伸びないのか、焦りもあった」と口にした。中学で陸上を始めて半年間も自己記録を更新できないのは初めてだった。もともと13年4月の10秒01は自己記録を0秒18も縮めた破格のタイムだ。「出ちゃった記録」だけに無理もない。

 高校の部活を卒業し、大学に入る前の空白期間。桐生は、走りをよくしようと「おれが9秒台を出させてやる」と断言する指導者の意見を参考にした。いわく「チーターのように走る」-。日本の古武術に通じるという型破りな内容にひかれた。そして月1回の秘密特訓を行うようになった。

 スタート前に腕や肩を動かすルーティンが増えて、靴底が真っ平らな異形のスパイクをはいた。桐生の性格、特長をじっくり見極めようとしていた土江コーチの慎重な姿勢に物足りなさを感じた。入学直後の4月に衝突。「ため口で切れてしまったことがある」。

 「先生とけんかしちゃいました…」。バツが悪そうに、柴田監督に報告すると「おい、ちょっと早いんじゃないか」とあきれられた。父康夫さんからは「何、考えとるんや!」と電話で怒鳴られた。

 4月の織田記念国際。1年前に10秒01を出した思い出の大会。予選10秒10とまずまずのタイムも、右太もも裏に張りがでて、決勝を回避した。会場に付き添っていた「チーターのように走る」といった指導者の前で、柴田監督から「体の使い方がおかしいって! 一体、何をやろうとしてるわけ!」としかられた。恩師の怒りに、座って治療を受けていた桐生は立ち上がって、直立不動で耳を傾けた。高3で50本近くを走りまくった桐生が、わずか100メートル1本で負傷した事実は重い。

 負傷直後の5月上旬、京都・西京極を訪れて、高校の後輩の試合を観戦した。地道に汗を流して基礎を固めた3年間を思い出した。「もうやめる」と秘密特訓から決別して、高校時代の練習メニューに戻った。ミニハードルは鉄パイプを買ってきて、適度な長さに加工した。50個以上を手作りした。土江コーチは、その作業を手伝い、そばに寄り添い、見守ってくれた。

 「ジェット桐生」は14年6月の日本選手権で初優勝。60メートル地点で先行する山県亮太を抜き去って逆転勝ちした。感覚派の桐生と理論派の土江コーチ。師弟の関係は少しずつ、だが確実に構築されていった。

 ◆益田一弘(ますだ・かずひろ)広島市出身、00年入社の41歳。大学時代はボクシング部。陸上担当として初めて見た男子100メートルが13年4月、織田記念国際の10秒01。昨年リオ五輪は男子400メートルリレー銀メダルなどを取材。