この2年間に全てを懸ける。16年リオデジャネイロ・オリンピック(五輪)柔道男子100キロ級銅メダルで、今年3月に2度目の左肩手術を受けた羽賀龍之介(27=旭化成)が、20年東京五輪に向けて再起を誓った。

2度目の左肩手術を終えた羽賀龍之介
2度目の左肩手術を終えた羽賀龍之介

 手術から4カ月-。羽賀は東京・芝浦の「トレーニングラボ」で懸命にリハビリに励んでいた。手術によって狭まった左肩の可動域も徐々に回復。専属トレーナーの中島裕氏とともに、体幹、筋力、瞬発力を軸とした計17種のトレーニングで心身を追い込んだ。「東京五輪は中途半端な気持ちでは勝てない。手術に踏み切って、自分自身も納得しているし、『まだ今年で良かった』と前向きに捉えている。今はやるだけ」。重さ25キロのダンベル2つを両手に持ちながら、すがすがしい表情でこう言った。

計50 キロ のダンベルを持って体幹を強化する羽賀龍之介(撮影・峯岸佑樹)
計50 キロ のダンベルを持って体幹を強化する羽賀龍之介(撮影・峯岸佑樹)

 左肩の痛みとは9年間の付き合いだ。09年全日本ジュニア大会準決勝で、初めて「肩がずれた違和感」を感じた。後に亜脱臼と知ったが、うまく付き合って10年世界ジュニア大会優勝など国際大会でも着実に実績を積み重ねていった。しかし、12年4月の選抜体重別選手権(ロンドン五輪代表最終選考会)1回戦で脱臼した。五輪代表には選出されず、同9月にリオ五輪を見据えて1度目の手術を千葉県内の病院で受けた。

 リオ五輪までは違和感なく競技を続けられたが、再び、悪夢が襲った。2連覇を狙った17年世界選手権2回戦で肩が外れた。「妙な違和感だった」。今年2月のグランドスラム(GS)デュッセルドルフ大会では完全に外れて、脱臼した。「まさか…。案の定だった」。自身でも肩を入れられず、翌3月に2度目の手術を受けることを決意した。3時間超に及ぶ大手術。医師には「可動域が落ちても良いから絶対に外れないように」と要望した。全治6カ月の診断だった。

 27歳。日本代表では中堅以上の年齢だ。術後4カ月は道着も着られないため、自分自身とも向き合い、「人生」について考える時間も増えた。

 「27歳は一般社会で例えたら、部下もいて役割を担っている人もいる。でも、僕は柔道界しか身を置いたことがない。その点は不安だし、常に考えている。柔道は東京五輪までしかやらないと決めている。選手としてピーク、世界一を目指す上では東京まで。それぐらいの強い覚悟を持っている」

バーベルスクワットで肉体を強化する羽賀龍之介(撮影・峯岸佑樹)
バーベルスクワットで肉体を強化する羽賀龍之介(撮影・峯岸佑樹)

 生活にも変化が表れた。病院やジムへ移動する際には本を熟読し、毎日午前7時から英会話の勉強を1時間してからランニングするのが日課だ。全日本柔道連盟のアスリート委員も務め、競技の普及活動にも力を入れ、トレーニングの合間を見ながら全国各地の柔道教室に参加する。日本フェンシング協会会長で08年北京五輪銀メダルの太田雄貴氏ら他競技の選手らとも積極的に交流を図り、現役選手でありながらも真剣に柔道界の未来を考える。限られた「今の時間」をどう有効活用するかという考えがある。

 「いろいろな方と会うことで人間力が高まる。五輪を経験して、自分の武器は『柔道だけ』でなく、それ以外の厚みを持たせたいと思うようになった。『羽賀龍之介-柔道=ゼロ』になりたくない」

 俯瞰(ふかん)して、自分自身や周りを見る分、己の「立ち位置」も十分理解している。100キロ級には東海大の後輩で17年世界選手権を制したウルフ・アロン(22=了徳寺学園職)がいる。ともに同大を拠点として稽古に励むライバルだ。「同じ道場に世界王者や五輪代表がいることは大きい。僕もそうやって、上の人を食って代表を勝ち取ってきた。もちろん、危機感もあるけど、彼がいることで自分が強くなれる。ありがたい存在」と胸中を打ち明ける。

 メディアには、階級、出身、出身校、内股が武器などで“井上康生2世”と頻繁に呼ばれる。リオ五輪の時はこんな一幕もあった。準々決勝で敗退し、敗者復活戦まで昼休憩を挟んで約4時間あった。気持ちが切れて、食事もせずにずっと下を向いていた時、井上監督からこう言われた。

 井上監督 おい、龍。ここでメダルを取る、取らないは全然違う。俺は(04年)アテネ五輪で負けて、(日本選手団の)主将でメダルを取らずに帰ったことが本当に悔しくて仕方なかった。お前にはそういう思いをしてほしくない。切り替えてメダルを取りにいけ。

 この言葉で目が覚めた。「意地でもメダルを取る」と奮起して、銅メダル獲得につながった。

リオデジャネイロオリンピック男子100㌔級の羽賀は笑顔なく銅メダルを手に写真撮影に応じる(撮影・松本俊)2016年8月11日
リオデジャネイロオリンピック男子100㌔級の羽賀は笑顔なく銅メダルを手に写真撮影に応じる(撮影・松本俊)2016年8月11日

 「あの言葉は絶対に忘れない。五輪の厳しさを教えてもらったし、あの時の気持ちの切り替えが成長につながった。恐れ多いけど、井上先生と比較される中で代表監督と選手として、東京五輪を目指せるのも特別だし、運命だと思う」

 「東京五輪」「柔道」「重量級」…。日本発祥の競技で自国開催の重圧。「金メダル絶対主義」の中、64年東京五輪では唯一、無差別のみが金メダルを獲得出来なかった。五輪経験者だからこそ、2年後に頂点に立つためには、リオ五輪以上の強さが必要と考える。「筋力、モチベーション、体力、全てにおいて前回を上回らないと勝てない。年齢を重ねても『リオ以上』にならないといけないし、絶対になれると信じている。一方で、僕の年齢で自国開催の五輪を狙えることは名誉なこと。プラスに捉えているし、ある意味、ゴールデンエイジだと思う」と前を向く。

昨夏の延岡合宿でアイスバスプールに入る(左から)中矢力、羽賀龍之介、王子谷剛志
昨夏の延岡合宿でアイスバスプールに入る(左から)中矢力、羽賀龍之介、王子谷剛志

 記者は柔道担当になって1年半が経過したが、不思議だった。羽賀は選手や関係者から「龍」「龍先輩」などと呼ばれて絶大な信頼を得ている。その魅力は一体何なのか-。性格なのかもしれないが、常に周りを見て、周囲のことを気にかける兄貴のような存在に見える。取材や雑談をする度に「○○選手の話も聞いてやってください」と、他選手にも目を向ける。こんな選手は他競技含めてもなかなかいない。柔道家でありながら、「トップアスリート」としての考えや信念をしっかりと持っている証なのかもしれない。昨夏、羽賀の地元の宮崎県延岡市で行われた代表合宿では、柔道では珍しいアイシング用ビニールプールを寄贈して、選手の疲労回復を促す手助けをした。栄養学の知識も豊富で、減量などで苦労する後輩らにアドバイスを送る。柔道については「個人種目だけど、チーム種目」と表現する。経験ある選手が主体となって個性豊かな若い選手をまとめ、日本代表としてのチーム力の向上が「個」をより高めると考える。

東京五輪に向けての思いを語る羽賀龍之介(撮影・峯岸佑樹)
東京五輪に向けての思いを語る羽賀龍之介(撮影・峯岸佑樹)

 集大成と位置づける東京五輪を見据えて、11月の講道館杯全日本体重別選手権で8カ月ぶりに実戦復帰予定だ。トップアスリート、羽賀龍之介の進化と覚悟をこの目に焼き付けたい。【峯岸佑樹】