プロ野球選手を目指す思いと対照的に、自慢だった左腕は悲鳴を上げていた。

手術後の痛みの再発は、専修大野球部2年だった黒川ラフィの心身にダメージを与えた。

また陸上のトラックを黙々と走る日々が始まった。

「なぁ、ラフィ…」

同じように走るしかなかった1年前、そう声をかけられたことを思い出した。

走りながら、いつも目にする光景があった。トラック内側のフィールドで、ラグビー部が楕円(だえん)球を追っていた。指導するのは元日本代表の名スクラムハーフ(SH)、村田亙監督(53)だった。

「村田さんがなぜ、自分の名前を知っていたか分からないんですが、1年生の時に『ラフィ、いつでもラグビーに来ていいぞ』と声をかけていただいたんです。そこからも継続的に気にかけてもらって…。2年生で初めて考え始めました」

2度目の手術を選べば、大学4年間の大半を棒に振る可能性があった。幼少期から目指してきたプロ野球の世界も遠くなっていた。

ルールさえ知らない競技に不安はあった。だが、求められたことがうれしかった。野球部の斎藤正直監督(61)も賛同してくれた。

「『もしかしたらラグビーで残り2年間を過ごす方が面白いかも』と思いました。走りに関しては、自信もありましたし…」

50メートルは5秒9。投げるだけでなく、走る才能も持ち合わせていた。まもなく3年生となる初春、初めて楕円(だえん)球を持った。

いきなり洗礼を味わった。元NECで専修大を指導する大東毅コーチ(46)が、タックル練習時にバッグを持って構えていた。思い切り体をぶつけると、いとも簡単に吹き飛ばされた。

「『ラフィ、軽くバッグに当たってみようか』って言われて、バーンとはじかれました。『これ、軽くだぞ』って言われたけれど、衝撃的で…。自分でも『コンタクトは最低3~4年はかかるな』と思いました」

そんな新入部員の才能を首脳陣は伸ばしてくれた。7人制日本代表を率いた経験を持つ村田監督は、入部約2カ月後に7人制の大会でデビューさせてくれた。15人制と同じフィールドで戦う7人制はスペースが広く、黒川自慢の俊足が生きた。4年の秋には20年東京五輪に向けて強化を始めた、7人制日本代表候補合宿に練習生として選ばれた。のちに五輪代表となった加納遼大(29=明治安田生命)も、同じ練習生だった。

「びっくりしました。でも、合宿で通用するところもあると感じて…。元々は大学卒業後にスポーツをするつもりはなかったけれど、そこで悩み始めました」

すでに社会人チームの多くは、新卒の入団選手を確保していた。ラグビーを続けるために選んだのは、クラブチームの強豪「北海道バーバリアンズ」だった。 設立者である田尻稲雄氏(73)の会社で施設管理の業務にあたり、週4回あるクラブの全体練習に励んだ。左ウイング(WTB)として頭角を示し、加入2シーズン目には全国クラブ大会決勝のトライで3連覇に貢献。着々とキャリアを積む過程で、関係者を通じ「練習に参加してみるか?」と声がかかった。当時、日本最高峰のトップリーグを戦っていた、地元福岡が拠点のコカ・コーラだった。

「『どこで、誰が見てくれているか分からない』と、心の底から思いました」

誘ってくれたのは03年W杯オーストラリア大会で15人制日本代表を率いた向井昭吾監督(59)だった。19年5月に入部。翌6月22日、東京・江戸川区陸上競技場で公式戦のトップリーグ・カップが行われた。クボタとの開幕戦に、黒川は仲間のサポートで同行した。

そこには、インド出身の父の姿があった。

幼少期から家にいることがほとんどなかった父だが、黒川は事あるごとに背中を押されてきた。息子のプレーは見られないと知りながら、父は向井監督の元へとあいさつに訪れていた。

「父とはよく『男として、どうあるべきか』という話をしました。スポーツに関して『やるからには1番を目指せよ』と言われ、自信を持たせてくれました」

53歳だった父が突然倒れたのは、その翌週だった。コカ・コーラで活躍する息子の勇姿を見る前に、突発的な病で息を引き取った。

訃報をわが事のように受け止めてくれた人がいた。

「向井さんがあの時、僕と同じように悲しんでくれた。すごく親身になっていただいたのを忘れません」

コカ・コーラで過ごす1年目が終了し、向井監督からは新たに2年契約を提示された。自らへの期待を受け止めて、意気に感じた。翌20-21年シーズンの出場機会は多くなかったが、プロ野球選手を目指していた頃と変わらない、向上心を常に持ち続けていた。

次は勝負を懸ける契約最終年-。

決意を新たにした直後、予想せぬ出来事が待っていた。(後編へつづく)【松本航】

【後編:苦しい時ほど前を向け・・・「やるからには海外目指す」】はこちら>>

【前編:1年からエース 50メートルは5秒9 スカウトがきた】はこちら>>