今から11年前。全国有数の高校野球激戦区として知られる福岡で、1人の左腕がまばゆい輝きを放った。

筑陽学園の1年生だった黒川ラフィ(26)は、新チームで背番号11を背負っていた。秋季福岡南部大会の3回戦で現阪神・梅野隆太郎捕手(30)らを輩出した福岡工大城東を完封。4回戦は筑紫台(前筑紫工)、準決勝では九産大九州と甲子園経験校を完封した。しなやかで、バネを感じさせるフォームから繰り出す直球は最速143キロ。県3位で九州大会へ進出すると、背番号「1」を手にした。

「プロ野球選手になりたい」-

夢を追って野球に打ち込んだ。その投球を一目見ようと、オリックスや広島のスカウトが視察に訪れた。

福岡市で生まれ、小学2年から地元の少年野球チームで白球を追った。母は日本人、父がインド人。幼少期から父は家を空けることがほとんどで、生活の面倒は母が見てくれた。中学生となり、変化球を交えた投球を捕れなくなる頃まで、母は投球練習で捕手役を担った。ノックも打ってくれた。

照れ屋で口にはできないが、きょうだい2人を懸命に育てる母を尊敬していた。周りの家庭との違いは子どもなりに理解していた。

「ハーフでちょっと人と違う。僕の『普通』は、生まれた頃から(周りの)『普通』ではなかったです」

周囲より優れていたのは運動能力だった。「よ~いドン」で走ってみると、人より速く走れた。のちに50メートル走は5秒9を記録した。

「スポーツをしていたから、その時々でチャンスをもらうことができ、今の自分がいるんだと思います」

小学3年から本格的に投手を始めた。白球を追って友と喜び、悲しむ。そんな日々が財産で生きがいだった。

その才能は中学でさらに伸びた。硬式の強豪「福岡ウイングス」に入部。2年生だった08年には全日本中学野球選手権「ジャイアンツカップ」に出場し、東京へと遠征した。1回戦を突破し、2回戦でぶつかったのは湘南クラブボーイズ(神奈川)。敗れたが、相手には現中日の高橋周平内野手(27)がいた。高校進学時も強豪校から複数の誘いがあった。選んだ筑陽学園は自身の中学3年時、夏の福岡大会で準優勝。甲子園まで、あと1歩に迫っていた。

現広島の長野久義外野手(36)らを輩出した強豪でも、期待される存在になった。1年秋の快投でエースの地位を確保。プロ野球スカウトを含め、多くの関係者が将来に注目していた。

だが、チームを背負う使命感は自らの首を絞めた。

「高3の春以降はずっと左肘に痛みがありました。痛み止めを打って投げていたので、正直、順調ではなかったです。気持ちや心がもっと強かったら、うまくいったかなと思います。あの時はいっぱいいっぱいでした」

野球で認められることが全てだった。悩みを1人で抱え込み、もがき続けた。

「『エースは1人で投げ抜くことが格好いい』と思っていました。絶対にマウンドを譲りたくなかった。痛くても周りに『痛くない』と言ったりしていて…」

3年になるまで目指していた高校卒業後のプロ入りも、断念せざるを得なかった。それでも元メジャーリーガーの黒田博樹氏(46)らを輩出した名門、専修大へ進む道が開けていた。

福岡から見知らぬ関東の地へと羽ばたき、もう1度腕を磨こうと思っていた。

迎えた、入部2日目。

投球練習を始めると、肘がけいれんした。高校最後の夏以降、体を休めたことで状態は戻ると思っていた。病院に行くと、将来を考えて手術を勧められた。リハビリは1年間に及んだ。

「手術をして、そこからは走ってばかりで…。できることがそれぐらいしかなかった。『体作りをしよう』と思って、自分にできることは頑張っていました」

大学2年になって復帰し、徐々に投げ始めた。球速も140キロ台に戻った。

「間違ってはいなかったんだ」-

自然と気持ちは高揚したが、少しすれば肘がパンパンに腫れた。簡単には受け入れられない現実だった。

本当に元のように投げられるのか-。

2度目の手術も考えた。深い葛藤を抱えつつ、いつもの場所に向かっていた。

神奈川・伊勢原市の専修大野球場。すぐ隣に大学の総合グラウンドがあった。

1年生の頃から陸上トラックを、ただ走ることしかできなかった。その姿を見ていた見知らぬ人が、声をかけてきたことがあった。

「なぁ、ラフィ…」

あの言葉を思い出した。(つづく)【松本航】

★つづきは会員登録(無料)で読むことができます↓

【中編:「なぁラフィ・・・」見知らぬ人はレジェンドだった】はこちら>>

【後編:苦しい時ほど前を向け・・・「やるからには海外目指す」】はこちら>>

【番外編:ラフィを第3の道に誘った男の後悔しない決断】はこちら>>