今からちょうど40年前に、ラグビー界で語り継がれる“事件”は起きた。1982年(昭57)1月2日、国立競技場。全国大学選手権の準決勝で2連覇を目指した同志社大学は、明治大学と対戦した。後半20分すぎにWTB大島眞也(4年)が退場を宣告された同志社は、逆転を許して敗れ去った。屈辱を糧に翌年度から3連覇を達成。あの退場がなければ、5連覇になっていた可能性もあった。運命に翻弄(ほんろう)された人に、当時を聞いた。【取材、構成=益子浩一】

(前後編の後編/前編から読む)

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★林、大八木、萩本、平尾と豪華布陣

正月の東京は雲ひとつない青空で、国立競技場は超満員に膨れ上がっていた。1982年1月2日、大学選手権の準決勝。同志社大学と明治大学の一戦は、事実上の決勝戦と見られていた。

同志社は両ロックが林敏之(4年)と大八木淳史(2年)、ハーフ団に萩本光威(4年)と平尾誠二(1年)。後に日本代表で活躍する選手を擁した。NHKで解説をした日比野弘さんは「明治はFWがよほど頑張らないと苦しい試合になるんじゃないですかね」と語っている。同志社優位、それが周囲の見方だった。

そのメンバーに、4年生WTBの大島はいた。

ちょうど1年前。ラグビー部に戻った大島は、優勝した関西リーグで全試合出場を果たす。1年間のブランクを埋めようと必死に練習を重ね、春の時点で4軍から夏合宿を経てレギュラーをつかんでいた。それが、部に戻してくれた部長の岡仁詩への恩返しにつながると考えてのものだった。

だが、大学選手権になると、先発どころか登録選手からも外れた。同志社は学生による話し合いでメンバーを決める。入ったのは真面目にこつこつとやってきた4年生の選手だった。

「悔しい思いもありました。でも1年間辞めて、迷惑をかけてしまった後ろめたさもあった。試合はテレビで見ていました。むちゃくちゃ出たかった」

そのシーズンに初の大学日本一となる。そんなことがあったから、より一層、最終学年にかける思いは強かった。

2連覇を狙う同志社の気迫はすさまじく、それを阻もうとする明治も闘志をむき出しにした。同志社はえんじ色に細い黄色のラインが入ったセカンドジャージー、明治は胸に「M」が入った白のジャージーで臨んだ。ガツン、ガツン。グラウンドには骨と骨がぶつかる音が聞こえた。互いに譲らないまま試合は終盤に入ろうとしていた。6万人を超える大観衆が固唾(かたず)をのんで見守る。同志社が7-3とリードした後半20分すぎ。問題の場面は起きた。

▼▼【「お前のせいで!」「消えろ!」心ない電話が実家に・・・/つづく】(残り3031文字)▼▼

反撃に転じた明治が、FW戦でゴール前10メートル深くまで攻め込む。連続攻撃のさなか、ラックに飛び込んだ大島が退場を宣告されたのである。荒々しい試合。高森秀蔵主審の判断は「密集の中で故意に相手を踏みつけた」というものであったが、ただ、繰り返し流れる映像にそのような場面は映っていない。1人少なくなった同志社は直後に逆転を許し、相手の勢いを止められぬまま7-20で敗れる。

当然のことながらビデオ判定もなく、審判のジャッジが絶対だった時代。誤審ではないか、との声もあった。明治の選手の証言もなく、大島も多くを語らなかったから、謎に包まれたままになっていたのである。

あの日から40年。22歳だった青年は年を重ね、62歳になった。

当時を尋ねると、大島は静かに言葉をつないだ。

「僕は語ったことがないんです。あの出来事を。判定が正しかったのか、正しくなかったのか。それは僕が言うことではないんです。ジャッジとして下された以上、それを受け入れるしかなかった。大ピンチだったから、(ラックの中で)手を使ってでも、このボールを出させないようにしよう。そんな思いでした。あの時、ラックに入ったことに『全く後悔はありません』とは言えない。ずっと、『ああしておけば良かった、こうしたら良かった』と。そう思いながら今まで、過ごしてきましたから」

遠くを見つめながら、コーヒーを飲み干す。少しの沈黙の後に、続けた。

「あの頃、岡先生に『理想のラグビーとは何ですか?』と聞いたことがあったんです。そうしたら『眞也、プロップがバックスのラインに入って攻めるようなラグビーって、おもろないか?』って言うんです。WTBの選手もFWの密集に入る。昔はどこもそんなラグビーをしていなかったけれど、同志社では当然のことやった。岡先生は40年も前から、今の時代のラグビーが見えていたんでしょうね」

退場を宣告されると、頭が真っ白になった。大観衆のどよめきも耳に入らず、観客席から降りてきた岡の姿だけが見えた。

ロッカー室に戻る。冷たい椅子に座り、泣きじゃくりながら、ただ仲間が勝ってくれることを祈った。部屋には同じ4年生で、苦楽を共にしてきた主務の苗村善久(現日刊スポーツ常務取締役)と2人きり。

「俺、決勝戦は出れるんかな」

そう言葉を絞り出したのを、今でも覚えている。すると「大丈夫、出れる。決勝は出れるから。勝つことを、信じようや」と繰り返しながら、肩を抱かれた。時折、大歓声が漏れてくる。明治を応援するファンの方が圧倒的に多かった。どちらが得点を奪ったのか、遠くから響く歓声で察した。

「グラウンドから引きあげてくるみんなの足音で、負けたのが分かりました。スパイクが床を踏むカチャ、カチャという音がゆっくりで、静かやった。勝っていれば、大声を出して走ってくるじゃないですか。人数が1人減って、負けてしまった。15人対15人なら勝っていたかも知れない。今でもそう、思うんです」

留年をしてまで大学に残り、この試合にかけていたSHの萩本が力なくつぶやく。

「すまん。勝てへんかった」-

“大学で作りうる最強のチーム”とまで呼ばれながら、悲運の判定で頂点に届かず。みんなが男泣きした。

大島は毛布にくるまれて、裏口から国立競技場を出る。タクシーに乗り込む際に、たくさんの記者に囲まれた。

その夜、都内の宿舎である法華クラブで、浴びるほど酒を飲んだ。そうすることで忘れようとしたが、40年という歳月が流れた今でも忘れることはできない。

★ラグビーから身を引く思いで

卒業後は関西社会人の強豪だった近鉄に進む。練習は厳しかった。ある日、走りながらパスを回すランパスが休みなく2時間続いた。たまらずグラウンドに倒れ込むと、1人から吐き捨てるように言われた。

「おい、大島! ざまあみろ」

京都の四条で洋服の寸法なおしの店を営んでいた実家には、見知らぬ声からの電話が、ひっきりなしにかかってきたという。

「お前が退場したせいで負けたんや!」

「ラグビー界から消えろ」

入社から2年目、大島は近鉄を辞めた。ラグビーから身を引くつもりだった。

「あの出来事から逃げたかった。今でも弱い人間やったと思います。自分の中では再出発するつもりで近鉄に行ったけど、周りは退場のことばかりやった。『あの事件を起こした大島や』と。俺がラグビーを辞めたら、実家に嫌がらせの電話がかかってくることもなくなる。ラグビーとは違う場所で、何かを成し遂げてやろうと考えた」

別の人生を歩もうと競輪学校を受験する。1度は最終テストで落ち、2度目の挑戦をしようとプロの教えを請いながら、トレーニングを兼ねて母校の花園高に通うようになっていた。全国的にも強豪になっていた伏見工業に、秋の決勝で敗れた花園高の後輩たちが「教えてください」とやってくる。心が動かされるのを感じた。身を引こうとしていたラグビーだったが、切っても切れない縁があった。

朝は中央市場で働きながら、同志社に聴講生として復学し2年で教職を取得する。花園高で6年コーチを務め、30歳を過ぎた頃に大阪の柏原高(現東大阪大柏原)に移ってラグビーを教えた。

「岡先生の影響はむちゃくちゃ大きいです。僕の心の奥底には、ラグビーで恩返しをしないといけないという思いがあった」

大島だけでなく恩師である岡もまた、あの“事件”の残像と戦っていたのではないだろうか。岡は、部内はもちろんOBにも、大島の退場に対する不満を口にすることを一切禁じた。その事実が、日本一を奪回する覚悟として伝わった。

退場から1年後、雪辱を期す決勝戦は、またしても明治との対戦になった。

決戦へ向かう最後の円陣で、1通の電報が読み上げられた。

「ニホンイチイノル シンヤ」

部を去った卒業生の無念を晴らすように、同志社はそのシーズンから3連覇を達成する。

★62歳、京都成章でコーチ

それから7年後の秋。岡が心筋梗塞で京都市内の病院に緊急搬送された日があった。知らせを聞いた大島は、慌てて家を飛び出した。面会謝絶。集まったOBは1人、また1人と帰っていく。誰もいなくなった病院の廊下にある長椅子に腰を下ろし、ただ祈った。どれほど、この人に救われたことだろう。気付けば日付が変わり、外はうっすらと明るくなっていた。

2007年5月に恩師がこの世を去ってからもなお、大島はその遺志を継ごうとしている。高校の指導から離れ、自ら警備会社を起こしていた頃に、京都で小学生を対象にしたラグビースクール「Kiwi`s」を立ち上げた。62歳になった今も、高校ラグビーの強豪校である京都成章でコーチを務める。今季の全国高校ラグビーに出場する同校のSO大島泰真主将(3年)はおいにあたり、この春に同志社に進学する。

指導の根底にあるのは常に、岡から受けた愛情であり、その哲学でもある。

「今でも『岡先生ならどうするやろうなあ』と考えることがあります。こうしなさい、ああしなさい、とは言わない人。回り道をしてもいい。自分で見つけることの方が重要やから。僕の中にそれは生きている」

あれほどまでに悩み、苦しみながらもラグビーを愛し、同志社への思いがある。それは岡仁詩という恩人から教えてもらった。

「先生が亡くなって時間がたつにつれて、薄れつつあると思うんです。今の指導者でも岡先生の影響を受けた人は少なくなってきているんちゃいますかね。僕は、残したい。伝えていくべき同志社の根幹やと思っています」

40年前のあの日、退場を宣告されると、観客席からグラウンドに降りてきた岡の姿だけが視界に映った。何をとがめるということもなく、強く抱きしめられる。

そのぬくもりは生涯、忘れることはない。(敬称略)

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