大相撲の第55代横綱で、日本相撲協会の理事長を務める北の湖敏満氏(本名・小畑敏満)が九州場所13日目の20日午後6時55分、直腸がんによる多臓器不全のため福岡市内の病院で急逝した。62歳だった。現役時代は、74年名古屋場所後に史上最年少の21歳2カ月で横綱に昇進。ライバル輪島と「輪湖時代」を築き、歴代5位の24度の優勝を重ねた。近年は入院や手術を繰り返し、体も激やせしていた。葬儀・告別式などは未定。現職理事長の死去は68年に亡くなった元横綱双葉山の時津風理事長以来で、理事長代行は八角事業部長(元横綱北勝海)が務める。日本相撲協会は今日21日に緊急理事会を開き、今後の方針を決める。

 九州場所が白熱してきたばかりだった。その結末を見る前に「北の怪童」が逝ってしまった。午後6時55分。北の湖理事長は静かに息を引き取った。まるでこの日の取組が終わるのを、待っていたかのように。

 体調不良を訴えたのは20日朝だった。貧血の症状で福岡市内の病院へ救急搬送された。当時、容体は安定していた。だが、夕方になって急変した。最期はおかみさんの小畑とみ子夫人らにみとられて、安らかに。部屋付きの山響親方(元前頭巌雄)は「最期の言葉もなかった」と明かした。元横綱双葉山の時津風理事長以来となる現職の理事長のまま、帰らぬ人となった。今後「北の湖部屋」は、山響親方が「山響部屋」として継承する方針という。遺体は斎場に移され、21日に陸路で東京へ搬送される。

 近年は体調がすぐれなかった。史上初の理事長復帰を果たしたのは12年2月。直前に見え始めた大腸がんの兆候を周囲には隠した。13年末に、大腸ポリープの除去手術後に腸閉塞(へいそく)を起こして入院。今年7月には腎臓に尿がたまる「両側水腎症」で手術し、体重も20キロ以上やせた。

 10月に入っても腎臓がすぐれず、都内で入院していた。秋場所に続いて今場所も、土俵祭りや協会あいさつを欠席。場所中は会場に着いても車の中で2時間、横たわる日もあった。それでも大関戦が始まると、報道陣には何事もなく対応した。亡くなる前日の12日目まで、変わらなかった。

 北海道に生まれ、66年冬に上京した。初土俵を踏んだ67年初場所は、まだ「中学生力士」が認められていた。13歳だった。三保ケ関部屋で、瞬く間に番付を駆け上がった。15歳9カ月で幕下に昇進し、72年初場所に新入幕。74年名古屋場所後に、今も不滅の史上最年少、21歳2カ月で横綱に上り詰めた。横綱輪島との白熱した「輪湖時代」は、日本中を熱狂させた。歴代5位の優勝24度を遂げた。

 強すぎる横綱だった。あんこ型で左四つの本格派。「憎らしい」とまで言われた。「負けろ」という声も飛び交った。当時のことを、こう述懐していた。「横綱は、頑張れと言われたらおしまいですから」。何よりのエールと受け止める憎らしさが、真骨頂だった。

 引退後は元横綱大鵬に続いて2人目の一代年寄「北の湖」を襲名した。02年2月に理事長に就任し、弟子の大麻問題などで08年9月に辞任したが、12年に再び返り咲いた。「残りの人生すべてを懸ける」と公益財団法人への移行に尽力し、一貫して「土俵の充実」を掲げた。相撲人気を徐々に復活させ、来年を楽しみにした。その矢先だった。昭和の大横綱は博多の冬空へ、無念の旅立ちとなった。

 ◆北の湖敏満(きたのうみ・としみつ)本名・小畑敏満。1953年(昭28)5月16日、北海道生まれ。67年初場所初土俵。74年名古屋場所後に史上最年少の21歳2カ月で横綱に昇進した。優勝24回は歴代5位。85年初場所で引退、一代年寄「北の湖」を襲名。同年11月に三保ケ関部屋から独立して部屋を創設した。02年2月に理事長就任。4選を果たしたが、08年9月に弟子の大麻問題で辞任。11年4月に弟子の八百長関与で、96年から務めていた理事も辞任したが、12年に理事長に復帰した。