関脇高安(27=田子ノ浦)が大関昇進を確実にした。1敗の横綱日馬富士をはたき込みで破り、11勝目を挙げた。昇進目安となる直近3場所33勝を1つ上回り、昇進を預かる審判部の二所ノ関部長(元大関若嶋津)も会議の開催を明言。場所後に「大関高安」が誕生する。優勝争いは横綱白鵬が全勝を守った。1敗力士は消え、14日目に勝てば自らの記録を更新する幕内最多38度目の優勝が決まる。

 その手でつかんだ。結びの一番を上回る35本(手取り105万円)の懸賞の束を。そして、大関の地位を。「コツコツ頑張ってきたので、やっと報われた1勝だと思います」。高安は、静かに喜びをかみしめた。

 「相撲人生の大一番」と位置づけた日馬富士戦。右から張って右上手を引く。投げの打ち合いでまわしが切れて1度は俵に詰まったが、先代師匠の鳴戸親方(元横綱隆の里)の教えがよみがえった。「土俵の外は千尋の谷だ。土俵際で残すことに相撲の美学があるんだ」。押しを残した。はたき込みが決まった。相撲の神さまがほほ笑んだ。「皆さんが思うのと一緒です」と二所ノ関審判部長に大関昇進を認められた。「相撲をやっていて良かったと今、あらためて思います」。

 1つ違えば、ここにはいなかった。05年春場所の初土俵から半年後、何度も部屋を逃げ出した。理由は人間関係。4度目の脱走から連れ戻される途中には、信号が青に変わる直前に車から飛び降り、千葉・松戸市から実家の茨城・土浦市まで自転車で6時間かけて戻った。先代はあきらめた。あきらめなかったのは父栄二さんだった。「絶対に戻しますので引退届を出さないで下さい」。何度も頭を下げた。

 同年10月に父は最後の策を練った。出られなかった中学の卒業証書を取りに誘う。何げなく訪れた先に、校長ら先生が全員いた。「横綱になれよ」と握手された。「部屋に帰るしかないか…」。渋々、戻ると、部屋関係者が全員集まっていた。稀勢の里も。その場で父は膝を折った。「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」。頭を畳につけた。土下座だった。その光景を見て「オレは、親に何をやらせているんだと思った」。相撲で生きる覚悟が、生まれた瞬間だった。

 国技館には毎日、両親が訪れていた。涙ぐむ2人の姿に「またこれで1つ、親孝行ができました」。喜びに浸るのは千秋楽後。ただ、恩返しはこの日、できた。【今村健人】