リオデジャネイロ五輪まで100日と迫った今、これまでの五輪予選で最も印象に残っているのは引退の場面だ。水泳の北島康介選手、女子マラソンの野口みずき選手、卓球の平野早矢香選手。一時代を築いたトップアスリートたちの引退の言葉で、共通していたのは「悔いがない」「やりきった」という言葉だった。

 物事をやりきった人はどのくらいいるだろうか。いや、そもそも何をもってやりきったと言えるのだろうか。たとえ20年間同じことをやり続けていても、まだ向上する可能性があり、本人にも未練があればやりきったとは言えないだろう。仮に向上していなくても、それが面白く感じていて続けたいと思うなら、それもやりきったとは言えない。では、やりきるとはどういう状態のことか。

 私はやりきった状態とは、可能性を追求し尽くした(と本人が納得している)状態のことだと思っている。五輪を目指すようなトップアスリートは、ただ同じトレーニングを繰り返しているだけではない。どうすればもっと良くなるのか? 前と違った新しい自分になるにはどうすればいいのか? それを日々、模索している。特に引退の間際になってくると、可能性がほとんど残されていない。痛みを抱えている場所も多く、トレーニング量も質も限界にきている。それでも、ある日ふと「もしかしたらこの技術を使えば、もっとうまくなれるかもしれない」と光明がさす時がある。だいたいはその日の夕方に「やっぱりもうだめかもしれない」と落ち込んでいたりするのだが、それでも翌朝起きてまた模索する。とにかく一喜一憂しながらも、自分の可能性を探り続けていく。

 上記の3人ほどのキャリアであれば、客観的に言えばもう十分じゃないかとも言える。それでもアスリートがなぜ現役を続けるのか? それは本当のところ「自分はどこまでやれたのか」を見たいからだ。そして、それを見ないまま引退をしてしまった場合「人生を後悔しながら生き続けるのではないか」という強い恐れがあるからだ。もし少しでもうまくなる可能性があるなら、それに懸けたい。そう思ってアスリートは最後の最後まで粘り続ける。

 そうして模索し続けて、あがいて、もがき切った選手にのみ、もうここまでだと腹に落ちる瞬間が来るのだと思う。その時、選手はこの感覚を持つのではないか。

 「できることはすべてやりきった」

 やりきった人間の笑顔はすがすがしい。リオデジャネイロ五輪まで100日。たくさんのスターが生まれる一方、たくさんの選手が引退していく。引退することになった選手が悔いなくすがすがしい笑顔で次に進めるように、これからの限られた時間にすべての力を出し尽くせることを願っている。(為末大)