今春のセンバツ出場校による甲子園交流試合の実施が10日、発表された。21世紀枠代表だった平田(島根)は19年春は同枠補欠校でもあり、念願の吉報。春夏通じて初の甲子園だ。

午後5時、報告を受けた部員たちの表情は一様に硬かった。周りにマスコミ関係者が20~30人いた。植田悟監督(48)は「何が起こったか、わからなかったようです。マスコミの方が多いのは春の時と同じで、トラウマのようなものがあったかもしれません」-。センバツ中止が決まった3月11日。悪夢とよく似た風景に戸惑った。あの時はミーティング、移動のバスで泣いた。しかし、この日は午後7時からのミーティングが歓喜に沸いた。

「世間様も大変でしょうが、ウチも春からジェットコースターみたいな時間を過ごしてきました。てっぺんで故障したり、下で動かなくなったり」と植田監督は言った。待望のセンバツが消え、監督との面談で夏に気持ちを切り替えたのに、5月20日に夏の甲子園大会中止が決まった。当時は分散登校。2、3年生の登校日だった翌日21日にミーティングをした。部員全員が号泣した。監督も泣いた。センバツ中止の時は「次」があった。その「次」までが消えた。

2、3年の部員数が19人。かつて小学2、3年生が二塁、右翼を守り、6年生と一緒にプレーする島根の現状を目の当たりにした植田監督らが「必要なのは、強化より普及」と訴え、数年前から保育園、幼稚園で草の根的に野球とふれあう環境作りに励んだ。手探り、手作りのチームが甲子園でプレーする。

植田監督は「他のスポーツなどの大会、イベントが軒並み中止になっているのに、ウチが甲子園で野球をさせてもらえる。その気持ちは私だけでなく、きっと部員にもあります。各方面には感謝しかありません」とした上で、慎重に話し始めた。

「休校などで練習できなかった“失われた1カ月半”は、大きいです。体力が確実に落ちている。欲張ると大変なことになる。心は高い目標を持ちながらも、体の方はけがをしないように…。欲はかけません」

まずは7月17日開幕の島根県大会へ。思わぬ甲子園切符に浮かれず、大事な野球に取り組んでいく。