ファンはもちろん、多くの相撲関係者も、やめてほしいなどと思っていない。何よりも本人が、復活を信じ、現役を続けたいと稽古している。それでも結果が伴わなければ、やめなければならない状況だと腹をくくっている。そんな力士生命をかける思いで秋場所(9日初日、東京・両国国技館)に臨むのが、横綱稀勢の里(32=田子ノ浦)だ。7月の名古屋場所の休場を表明した際に「来場所、すべてをかけて頑張っていきたい」と、決意を語っていた。

稀勢の里は第72代横綱。江戸時代前期の初代明石志賀之助から数えて、横綱はわずか72人しかいない。師弟ともに横綱というケースは少ないが、稀勢の里の師匠も元横綱隆の里の故先代鳴戸親方。現役時代は口数も少なく、師匠としては「朝稽古」が午後まで続くことも当たり前という、厳しい指導で知られる。その隆の里の師匠も「土俵の鬼」と呼ばれた元横綱の初代若乃花。口数の少なさ、厳しい稽古は、その初代若乃花を引き継いだ。極めて少ない、3代続く横綱の系譜を継いだ稀勢の里が、口数が多いわけもない。言い訳はせず、土俵で結果を示してきた。

口数の少ないことで、誤解されかねないこともある。秋場所初日のちょうど1カ月前となる8月9日。地元茨城県の龍ケ崎市で行われた巡業で、稀勢の里は朝稽古の土俵に立たなかった。その3日前の8月6日から、関取衆相手に本格的な稽古を再開し、翌7日まで2日連続で相撲を取っていた。同8日は稽古土俵に立っていなかったが、幼少期を過ごした龍ケ崎市で目いっぱい稽古するための休養だと、報道陣は勝手に思い込んでいた中で、肩すかしを食った格好となった。「9月場所で活躍できるよう、しっかり頑張りたい」などと、稽古を休んだ理由について、多くは語らなかった。

だが龍ケ崎市での巡業の取組を終えて、花道を引き揚げる際に、明らかに異変があった。地元ファンの盛大な拍手と声援に笑顔をつくることもできず、険しい表情で歩いていた。後日、実は左足裏に傷ができていて「龍ケ崎の時が一番ひどかった」と話している。多くを語らないことで、その日は、地元ファンに稽古も見せず、交流も少なめと、冷たい態度を取ったようにも見られたはず。だが立っているだけでも痛みを感じる中で、稽古場には姿を見せて四股を踏み、横綱土俵入りも取組も行った。龍ケ崎市の巡業の翌日、福島・白河市での巡業では稽古場にも来ることができず、土俵入りも回避したことを考えれば、その時点での目いっぱいのファンサービスだった。

秋場所の出場意思を表明した9月6日も「やるべきことは、やってきた」と、短い言葉に決意を込めた。それまでの稽古を振り返り「良かったり悪かったりというのが、逆に良かったと思う」と、けっして順調ではなかったことも自覚している。それでも「しっかりと準備はできた」と言い切った。8場所連続休場で、相撲勘が鈍くなるのも当たり前。言い訳したくなる状況でも、出場する以上は「準備はできた」と断言し、退路を断って臨む秋場所。横綱として歴代最長の連続休場明けの、誰も経験したことのない挑戦が、いよいよ幕を開ける。

【高田文太】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)