4月26日に65歳となり、日本相撲協会の定年を迎える元大関琴風の尾車親方が21日、オンラインでの会見に臨んだ。

引退後は部屋の師匠として、協会においてもNO・2の事業部長の要職に就いてさまざまな難事などに向き合ってきた。

以下一問一答

-今の思いは

尾車親方(以下尾車)「過ぎてみれば早かった。51年お世話になって思い返せばいろいろなことがあったとしみじみ思っています。51年前の大阪場所、稽古を見に行ったのがきっかけとなり、相撲協会で定年を迎えることになった。私の人生が相撲一色になるとは思ってもいなかった」

-相撲人生を振り返り

尾車 「ひとくちでは言えないがいろんなことがありました。現役時代、親方になってもそう。事業部長としてもコロナと向き合い、過ぎてみれば自分の人生のたしになったと思っている。苦しかったことも、終わってみればいい思い出になったかと今、考えています」

-現役時代の思い出

尾車 「稽古の厳しさですね。入門して1年、2年は逃げることしか考えていなかった。2年間、部屋から中学にも通っていた。当時の少年からすると抱えきれないほどの生活をしていた。仲間がいたから持ちこたえたと思うが、当時を思い返せば51年後に定年の会見をするとは不思議でしかない」

-相撲を続けたのは

尾車 「同期に支えられ、乗り越えてきた。仲間に恵まれたのが大きかった。出世とか大関、横綱なんて夢にも思っていなかった。励まし合ってきたのが一番の思い出です」

-膝のけがに苦しんだ

尾車 「けがをしてからは自分が賜杯を抱けるなんて、ましてや大関に上がれるとは夢にも思わなかった。自暴自棄になったこともあった。土俵には上がれないと思うこともあったが、多くの人に支えられた。自分の努力というより、人に支えられて相撲をとることができた。今、振り返ってしみじみ感じます」

-師匠となって

尾車 「ひと言では難しいが中学を卒業したばかりの5、6人でスタート。ちゃんとした部屋になるまで十数年かかった。人が人を育てる。素晴らしい職業だと思うが、難しさも体現させてもらった。『努力は裏切らない』。相撲は如実に現れる。自分で努力して、結果が出るまで努力しろと弟子には言い続けてきた。なかなか部屋の師匠になるのは簡単じゃない。夢はあるが実際に向き合った時にどれだけ理解してもらえるか。辞めるまで考えていた」

-協会の要職として

尾車 「理事を5期10年やらせてもらって、最初は地方担当としてより広めていければと思っていた。その後、6年事業部長として働かせてもらって協会員全員の生活を背負う。コロナ、不祥事、たくさんのことに向き合いながら6年、やらせてもらった。大変だったが振り返れば自分の肥やしになっている。少しでも恩返しになっているとしたらよかったなというのが、率直な思いです」

-今後に期待するのは

尾車 「今もお客さんがわく相撲をとっているが、もっともっと相撲を見たいと思ってもらえるような好取組が増えてほしい。稽古を積まないと大味になってします。機会があれば(元横綱)千代の富士関の話を聞いてもらいたい。肩の脱臼があっても怠らなかった。それを今の若い力士に、生き証人として話す機会があればしたい。私も毎日、千代の富士関と稽古する時は(膝の)水を抜いていた。それだけの思いをした稽古の話をしたい。先人たちはそれだけの思いをして土俵を守ってきたのだと」