最高位は東前頭4枚目、現役屈指の人気を誇る東幕下4枚目の炎鵬(31=伊勢ケ浜)が、3年ぶりの関取復帰に前進した。

1031日ぶりに十両土俵に立ち、3年ぶりに顔を合わせた西十両14枚目の荒篤山を突き落とし。5勝1敗で今場所は残り1番となった。荒篤山は負け越しが決まり、剣翔、島津海とともに来場所の幕下転落が確実。十両に少なくとも3枠の空きができた状況で、炎鵬がもう1勝、上積みできれば、十両再昇進の可能性は高まる。

待ち望んでいた土俵に帰ってきた。1031日ぶりに大銀杏(おおいちょう)を結って本土俵に立った炎鵬が、大歓声で迎えられた。幕下以下では原則ない塩まきなどの関取の所作に「やっぱりいいな」。立ち合いは懐に潜り込めなかったが、左に動きながら突き落とし。通路で待っていた宮城野部屋からの兄弟子、間垣親方(元前頭石浦)と笑顔で抱き合った。

「自然と体が動いた。久しぶりにこれだけの歓声をいただいて…。あきらめずにやってきてよかった」。こみ上げるものをこらえた。脊髄損傷の大けがで7場所連続で休場した。序ノ口まで番付を落とす前、最後に土俵に立ったのは23年5月22日。西十両3枚目で臨んだ夏場所、初日から9連敗した9日目だった。十両での白星は23年3月26日、春場所千秋楽の白鷹山戦以来1088日ぶりだった。

途中休場した23年夏場所は、序盤から異変を感じていた。「体の動かし方が分からなくなった」と頭で理解できても手足が出てこなかった。ついに中盤で当時の師匠、宮城野親方(元横綱白鵬)に直訴した。「もう相撲を取れません」。同場所は関取29場所目。30場所で親方として残る条件をクリアできる。「自分も親方も理解していた。だから親方は『あと1番、勝つまで頑張れ』と言ってくれた」。ただ体は限界だった。この場所で1勝していれば、次の場所も十両に残留できていた。だが遠かった。

先場所も“あと1勝”届かなかった。勝てば関取復帰が確実だった、幕下優勝を懸けた七番相撲で黒星。ただ炎鵬は「後悔はない。現役を続けたからこそ学んだことは多い」と言った。もともとは医師からの「相撲はあきらめてください」という引退勧告が始まり。寝たきり生活も送った。休場中に故郷石川県が甚大な被害に遭った能登半島地震や、弟弟子の元幕内北青鵬による暴力で宮城野部屋の閉鎖、伊勢ケ浜部屋への移籍もあった。再び結った大銀杏を「うれしいような、懐かしいような、恥ずかしいような。いろんな感情があった」と、かみしめた。

幕内→序ノ口→関取となれば史上初。ただ、まだ他の力士の成績次第で関取復帰が「確実」とはいえない。だからこそ言った。「あと1番、死ぬ気でやりたい」。ずっと遠かった「あと1番」。今度こそつかみ取る。【高田文太】

◆炎鵬友哉(えんほう・ゆうや)本名・中村友哉。1994年(平6)10月18日、金沢市生まれ。兄文哉さんの影響で5歳から相撲を始める。金沢学院東高で3年時に高校総体8強。金沢学院大では2、3年時に世界選手権軽量級で優勝。初土俵は17年春場所。横綱白鵬に憧れ、白鵬の内弟子として入門。序ノ口、序二段、三段目と3場所連続で各段優勝し、18年春場所新十両、19年夏場所新入幕。19年名古屋場所で技能賞。得意は左四つ、下手投げ。家族は両親、兄。167センチ、107キロ。血液型AB。

炎鵬の浮沈アラカルト

◆17年春場所 当時の横綱白鵬の内弟子として、金沢学院大から宮城野部屋に入門し、前相撲で初土俵。

◆17年秋場所 序ノ口、序二段に続き、三段目で各段優勝。序ノ口デビューから21連勝は、昭和以降4位タイ(当時)。翌場所一番相撲で敗れて連勝は止まる。

◆18年春場所 関取最軽量の94キロで新十両。100キロ未満の新十両は、01年初場所の小緑(99キロ)以来。

◆19年夏場所 99キロで新入幕。幕内の100キロ未満は12年秋場所の隆の山(96キロ)以来。平成以降は他に旭道山、舞の海で4人目。

◆19年名古屋場所 技能賞に輝き、三賞初受賞。

◆21年初&秋場所 新型コロナウイルスの規定で、宮城野部屋の全員が全休。

◆23年夏場所 初日から9連敗後「頸部(けいぶ)椎間板ヘルニアで約3カ月の加療を要す」の診断書を提出し、10日目から休場。後に脊髄損傷の大けがと判明。7場所連続の休場へ。

◆24年1月 故郷石川県が能登半島地震の被害に遭い、土俵で恩返し誓う。

◆24年3月 春場所後に弟弟子の元幕内北青鵬の暴力問題により、宮城野部屋から伊勢ケ浜部屋に転籍。

◆24年名古屋場所 420日ぶり本土俵復帰。一番相撲は清水海に敗れるも周囲の支えに感謝し涙流す。

◆25年名古屋場所 四番相撲で左腓骨(ひこつ)を剥離骨折して途中休場。

◆26年初場所 六番相撲で左足首2カ所を骨折も、勝てば関取復帰を確実とする幕下優勝を懸けた七番相撲の延原戦に臨み敗れる。