20日にNHK・BSプレミアムで放送される音楽番組「秋の名曲スペシャル」に「糸」「やさしいキスをして」などの曲とともに、78年発表の杏里のデビュー曲「オリビアを聴きながら」が選ばれました。男女の恋の切ない終わりを歌った曲は、スタンダードナンバーとして今も愛されています。名曲やヒット曲の秘話を紹介する「歌っていいな」の第8回は「オリビアを聴きながら」の登場です。

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96年11月、杏里が6年ぶり3回目の紅白歌合戦出場を決めた。NHKの強い要望を受けての出演となった。渡米中の杏里は「毎年の年越しは、ロサンゼルスでのレコーディングが恒例だったので、今から日本での年越し、大みそかが楽しみです」とコメントした。

1978年(昭53)秋、フォーライフレコードの宣伝マンが当時新人で17歳だった杏里のデビューレコード「オリビアを聴きながら」をテレビ各局に持ち込んだ。テレビ出演のチャンスをうかがうためである。ところが「おたくの新人? あっ、そう」と素っ気なく対応し、レコードを机の上にポンと投げ捨てる担当者もいた。

当時、フォーライフに所属していたのは小室等、吉田拓郎、井上陽水らテレビに出演しない大物ばかりだった。テレビ局にとっては“非協力的”なレコード会社と言えた。今や日本を代表する女性シンガーとなった杏里の第1歩は、決して順調とはいかなかった。

その1年前、16歳だった杏里がフォーライフにやってきた。のちに杏里を担当する常富喜雄プロデューサーの目の前に現れたのは、洗いざらしのジーンズに、Tシャツ1枚。真っ黒に日焼けし、ストレートの髪をなびかせた女の子だった。常富さんは「背伸びをせず、必要以上に自分を良く見せようとしない素直な子だった」と思い返す。

当時「ニューミュージック」と呼ばれる新しいジャンルが日本の音楽界を席けんしていた。プロデュースなどは、まだまだ男性が主導した時代で、荒井由実(現・松任谷由実)らは少数派だったが、女性主導の音楽創作が次第に目立ってきた時期でもあった。常富さんは「杏里もそんなアーティストに育てたい」と1人で願っていた。杏里のデモテープに興味を持ってくれたシンガー・ソングライターの尾崎亜美にデビュー曲を依頼することになり、杏里と常富さんが一緒に尾崎の家を訪ねた。取りとめのない話が続き、杏里が「オリビア・ニュートンジョンがすごく好きなんです」と言って目を輝かせた。深夜のひと時に彼のことを思う女心を飾りなく歌う「オリビアを聴きながら」がデビュー曲に決まった。

レコーディングは、当時の新人としては異例のロサンゼルスで行った。杏里にとって外国は初めてで、その時受けた新鮮な印象が、のちに持ち味となる米国西海岸のにおいにつながっていく。

ヒットチャートは27位が最高で、当初はビッグヒットではなかった。その後、大学生ら一部のファンに支持を得たものの、83年8月に発売された日本テレビ系アニメ「CAT’S EYE(キャッツ・アイ)」の同名主題歌が大ヒットするまでの6年間は、地道な活動を続けるアーティストだった。常富さんは「6年もヒットがなければ、普通は契約解除するレコード会社もあったでしょうが、うちはそういう点でも他のレコード会社と違って異質だったんでしょうね」と振り返る。

美人3姉妹の活躍を描いた「CAT’S EYE」主題歌のヒットで、83年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たし、人気が一気に全国に浸透した。時期を同じくしてカラオケブームが始まり、大学時代にデビュー時の杏里の曲を聴いていたOLたちが、カラオケで歌う曲にこぞって選んだのが、「オリビアを聴きながら」だった。そしてじわじわと、代表曲と認知されていった。女性の心を歌った普遍性がこのOLたちの後の世代にも引き継がれていった。

時間をかけて育つ名曲がある。今年の紅白でも、ファンはきっと「オリビアを聴きながら」を歌って欲しいと望んでいるだろう。

【特別取材班】


※この記事は96年11月29日付の日刊スポーツに掲載されたものです。一部、加筆修正しました。連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信します。

第47回NHK紅白歌合戦で熱唱する杏里(1996年12月31日撮影)
第47回NHK紅白歌合戦で熱唱する杏里(1996年12月31日撮影)