人気演芸番組「笑点」のレギュラーとして活躍した落語家の林家こん平(はやしや・こんぺい)さん(本名笠井光男=かさい・みつお)が17日午後2時2分、都内の自宅で誤嚥(ごえん)性肺炎のため亡くなった。77歳。

初代林家三平さんの弟子で「1、2、3、チャラーン。こん平で~す」のギャグと明るいキャラクターで愛された。19日に家族葬を行った。喪主は長男の笠井雄作(かさい・ゆうさく)さん。後日、お別れの会を行う予定。

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「笑点」の人気者がまた1人、旅立った。関係者によると、こん平さんは今年4月に体調を崩して入院。一時は危機的状態になりながらも持ち直して退院した。だが、この時に「あと数カ月」と余命宣告された。自宅で最期を迎えたいと終末医療を選択。体は徐々に弱っていったが、見舞いには「うん、うん」と言葉を返すなど、意識は亡くなる2日前まであったという。

17日は4人の子供ら親族にみとられて、苦しむことなく息を引き取った。19日の家族葬には、子供や孫、ひ孫ら親族に、弟子の代表として林家うん平だけが参列したという。

こん平さんの晩年は病気との闘いだった。04年に体調が悪化して「笑点」を休演。しばらくは病名が分からない状態が続いたが、翌05年に多発性硬化症と判明した。神経の難病で、落語家の命綱ともいえる声を奪われ、言葉が不自由になった。40年間レギュラーを務めた「笑点」も06年に正式に降板。その後は高座復帰を目指して、リハビリに専念した。声が出るまでに回復し、主催した「都電寄席」などで両手を上げて「チャラーン」と叫ぶギャグを披露するなど、元気な姿を見せた。また、三遊亭小遊三と始めた「らくご卓球クラブ」の練習にも参加。鮮やかなラリーを見せたこともあった。

多発性硬化症に加え、糖尿病、脳梗塞なども患ったが、その闘病体験をもとに講演会も実施。2020年パラリンピックの応援大使にも任命され、昨年8月には小池都知事とともにパラリンピックのイベントに登場していた。

こん平さんは新潟の農家で育ち、中学卒業と同時に上京。当時の爆笑王だった初代林家三平さんに入門した。師匠譲りの型破りの高座で人気を集め、二つ目ながら66年に始まった「笑点」の大喜利メンバーに抜てきされ、「チャラーン」「こん平で~す」のギャグと明るいキャラクターで親しまれた。師匠の死後は37歳の若さで三平一門を率いて、林家正蔵、林家たい平、2代目林家三平らを育てた。落語協会の理事も長く務めた。大学4年の孫が落語研究会に入っており、落語家デビューを楽しみにしていたが、その晴れ姿を見ることはかなわなかった。

◆林家こん平(はやしや・こんぺい)1943年(昭18)3月12日、新潟県千谷沢村(現長岡市)生まれ。58年に初代三平さんに入門。66年に「笑点」の大喜利メンバーに。72年に真打ち昇進。郷里新潟の話題や時事ネタを取り入れた高座で人気があった。三遊亭小遊三と「らくご卓球クラブ」を結成し、世界ベテラン卓球選手権にも出場した。著書に「チャランポラン闘病記」。